〈タイトル〉オキシトシンと視線との正のループによるヒトとイヌとの絆の形成
〈著 者〉永澤美保・菊水健史
〈著者所属〉麻布大学獣医学部 動物応用科学科伴侶動物学研究室
〈著者email〉kikusui@azabu-u.ac.jp(菊水健史)
〈対象論文〉
Oxytocin-gaze positive loop and the coevolution of human-dog bonds.
Miho Nagasawa, Shouhei Mitsui, Shiori En, Nobuyo Ohtani, Mitsuaki Ohta, Yasuo Sakuma, Tatsushi Onaka, Kazutaka Mogi, Takefumi Kikusui
Science, 348, 333-336 (2015)
〈要 約〉
ヒトとイヌの共生は1万5千年前から3万3千年前にはじまったとされている.イヌはヒトの最良の友といわれてきたが,これまで,そのヒトとイヌとの絆は科学的な研究の対象とはされてこなかった.今回の研究において,ヒトとイヌとの関係性は,ヒトの母子のあいだに共通に認められるようなオキシトシンと視線を主としたアタッチメント行動との正のループにより促進されるものであることが明らかにされた.この正のループはヒトとオオカミとのあいだには認められなかったことから,進化の過程においてイヌが特異的に獲得したものであることも明らかにされた.このようなヒトとイヌという異なる種のあいだに形成される絆の存在は,イヌのすぐれた社会的能力を示すものであるとともに,イヌと生活環境を共有するヒトの社会の成り立ちを理解する手がかりになることが期待される.
はじめに
近年,比較認知科学においてイヌの特異的な能力が注目されるようになってきた.戦略的な知能は類人猿であるチンパンジーのほうがすぐれているが,最新の研究により,"心のありよう"がヒトに近いのはむしろイヌであることが明らかにされつつある.たとえば,ヒトの示す協力的なシグナルの理解はイヌのほうがチンパンジーあるいはイヌと共通の祖先種をもつオオカミよりすぐれている1).イヌ科動物がもともともっていた群れにおける協力行動あるいは協調行動を考慮すると,ヒトおよびイヌはそれぞれの進化の過程においてストレス応答系に同様の突然変異が起こり,それがヒトおよびイヌに寛容な気質をもたらしたことにより社会ニッチの共有,すなわち,共生が可能になったこと,そして,それに付随して,ヒトは他者と協力しあえるようになったという収斂進化仮説が示されている2).
マウスあるいはヒトの母子のあいだには,絆あるいは個体のあいだの親和的な関係性を形成する際に,アタッチメント行動からはじまる一連の連鎖のあることが知られている.たとえば,仔マウスは鳴き声や吸乳行動がアタッチメント行動として機能し,母マウスにおけるオキシトシンの分泌が促進される.これは母マウスの母性行動を上昇させ,仔マウスに対する庇護を濃密なものにする.母性行動を受容した仔マウスにおいてはオキシトシンの分泌が促進され,さらに身体的な接触をもとめるようになる3).このアタッチメント行動およびオキシトシンを介した関係性は哺乳類の母子のあいだで一般的に観察されると考えられている3).一般的に,動物では相手を直視することは威嚇のサインになるが,例外的にヒトでは"みつめあい"のような親和的なサインとして利用される.とくに,子は母に対しアタッチメント行動として視線を使うことが知られている3).そして,イヌを飼ったことがあるなら,イヌの視線も乳幼児のものと同様に愛らしく感じられ惹きつけられることを経験的に知っているだろう.そこで先行研究においては,イヌの視線はアタッチメント行動として飼い主において絆の形成に関与するホルモンであるオキシトシンの分泌が促進されるという仮説をたてた.その結果,イヌが飼い主をよくみつめ,それによりイヌと飼い主とのやりとりが喚起されるペアでは,飼い主におけるオキシトシンの分泌が促進されることが明らかにされた4).また,イヌの視線を遮断することによりそのような飼い主におけるオキシトシンの分泌の促進はなくなることもわかった4).
この研究においては,ヒトとイヌとのあいだの視線とオキシトシンとの関係が,ヒトの母子のあいだに認められるようなアタッチメント行動とオキシトシンとの正のループと同様なものであること,さらに,収斂進化仮説にもとづき,イヌが進化の過程においてこの正のループを獲得したことを明らかにしようと試みた.
1.オキシトシンを介した正のループはイヌに特異的である
一般の家庭犬とその飼い主30組の協力を得て,実験室にて飼い主とイヌとで30分間の交流を行った.交流中の行動はすべて録画し,また,交流の前後に飼い主およびイヌの尿を採取しオキシトシン濃度を測定した.行動解析により,イヌが飼い主をよくみつめるグループとあまりみつめないグループとに分かれることがわかった.飼い主およびイヌの尿中オキシトシン濃度を比較したところ,イヌが飼い主をよくみつめるグループでは飼い主もイヌも交流ののち尿中オキシトシン濃度が上昇したが.イヌが飼い主をあまりみつめないグループでは飼い主およびイヌの尿中オキシトシン濃度に変化はなかった.この結果から,イヌの飼い主にむけた視線はアタッチメント行動として飼い主におけるオキシトシンの分泌が促進されるとともに,それにより促進された相互のやりとりによりイヌにおけるオキシトシンの分泌も促進されることがわかった.そこで,このような視線によるオキシトシンの分泌の促進が,イヌと共通の祖先種をもつオオカミにもみられるかを調べた.幼少期から生活をともにし非常に親密な関係を結んでいるオオカミとその飼い主11組に対し同様の実験を行ったところ,30分間の交流において,オオカミと飼い主との接触についてはイヌの飼い主をあまりみつめないグループと差がなかったにもかかわらず,オオカミは飼い主の顔にほとんど視線をむけないことがわかった.そして,オオカミと飼い主のいずれも交流ののち尿中オキシトシン濃度に変化はなかった.
2.オキシトシンの投与によりイヌの飼い主に対する視線は増加する
このオキシトシンを介した正のループを実証することをめざし,イヌに人為的にオキシトシンを投与することにより飼い主に対する視線が増加するか,さらに,それにともない飼い主におけるオキシトシンの分泌が促進されるかを調べた.また,飼い主からの接触やかかわりを遮断した場合に,イヌにおけるオキシトシンの分泌の促進はなくなるかどうかも調べた.一般の家庭犬とその飼い主30組の協力を得て,飼い主のほかイヌにとり初対面の人2名がくわわり,実験室にて30分間の交流を行った.交流のあいだイヌは自由に行動できるが,飼い主や初対面の人からはイヌに声をかけたり触ったりすることを制限した.交流の直前に,イヌにオキシトシンあるいは生理食塩水をスプレーを用い経鼻投与した.交流中の行動はすべて録画し,また,交流の前後にヒトの尿を採取しオキシトシン濃度を測定した.行動解析により,オキシトシンの投与により雌イヌの飼い主をみつめる行動が増加することがわかった.また,オキシトシンを投与した雌イヌと交流した飼い主においてのみ,尿中オキシトシン濃度が上昇した.雌イヌのそのほかの行動に変化はなく,雄イヌの行動およびその飼い主の尿中オキシトシン濃度には変化はみられなかった.
おわりに
イヌの飼い主に対する視線はアタッチメント行動として機能し,飼い主においてオキシトシンの分泌が促進されるとともに,それにより促進された相互のやりとりによりイヌにおいてもオキシトシンの分泌が促進されることが示された.また,イヌにオキシトシンを投与することにより飼い主をみつめる行動が増加し,それにより飼い主におけるオキシトシンの分泌が促進された.これらのことから,ヒトとイヌとのあいだにはヒトの母子のあいだと同様のオキシトシンと視線を主としたアタッチメント行動との正のループが存在し,それにより生物学的な絆が形成されることが示唆された.また,オオカミにはこのような視線とオキシトシンとの関連はみられなかった.つまり,イヌは進化の過程においてヒトに類似したコミュニケーションスキルを獲得しただけでなく,正のループも獲得したことによりヒトとの絆を形成することが可能になったと考えられた.このように正のループを共有できるイヌとヒトとの関係は寛容性の獲得とそれにともなう協力的な関係を基盤として成立したという可能性(図1)は,ヒトの本質あるいはヒトの社会の成り立ちを理解するための手がかりとなると考えられる.また,雌イヌとその飼い主のみに変化がみられた点については,オキシトシンの作用の性差を反映している可能性がある.オキシトシンが状況に応じてその作用機序を変えていることを示唆している点でも,非常に興味深い結果であるといえる.
〈文 献〉
1) Hare, B., Brown, M., Williamson, C. et al.: The domestication of social cognition in dogs. Science, 298, 1634-1636 (2002)
2) Hare, B. & Tomasello, M.: Human-like social skills in dogs? Trends Cogn. Sci., 9, 439-444 (2005)
3) Nagasawa, M., Okabe, S., Mogi, K. et al.: Oxytocin and mutual communication in mother-infant bonding. Front. Hum. Neurosci., 6, 31 (2012)
4) Nagasawa, M., Kikusui, T., Onaka, T. et al.: Dog's gaze at its owner increases owner's urinary oxytocin during social interaction. Horm. Behav., 55, 434-441 (2009)
〈著者プロフィール〉
永澤 美保(Miho Nagasawa)
略歴:2008年 麻布大学大学院獣医学研究科 修了,同年 同 特任助手を経て,2013年より自治医科大学医学部 ポストドクター.
研究テーマ:イヌの社会性.
関心事:イヌとヒトがなぜこれほどまでに親密な関係を構築できたのか? 種が異なるにもかかわらず結ばれた絆を理解することは,ヒトの共感性や協力行動の成り立ちを知る手がかりになるのでは? この2つの疑問をイヌの行動,認知,行動内分泌,進化の観点から解明することを目的に研究している.
菊水 健史(Takefumi Kikusui)
麻布大学獣医学部 教授.
研究室URL:http://azabu.carazabu.com/car/home
〈図説明〉
図1 正のループを共有できるイヌとヒトとの関係
イヌは祖先種をともにするオオカミから社会的な寛容性が高まり攻撃性が低下したことにより分岐したと考えられている.一方,ヒトも祖先種をともにするチンパンジーとは社会的な寛容性の高さにおいて異なる種といえる.互いに同様の社会的な寛容性を手にしたヒトおよびイヌが,社会ニッチを共有しオキシトシンおよび視線を主としたアタッチメント行動との正のループを獲得するにいたったと考えられる.
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