Minna_de_Honkoku@yhashimoto:L001208 JSONTXT

【右頁欄外に】 明治廿五年三月二十六日逓信省認可  明治二十二年二月十日初號発兌 【右頁上段】 東京府師範学校教官 大橋雅彦先生編畫 《箱:小学 本朝習画帖》尋常科用全八冊●正価             金三十九銭二厘郵税六             銭●自一至四●一冊金             四銭八厘●自五至八●             一冊五銭●郵税一冊に             付二銭             高等科用全八冊正価五             拾銭郵税八銭●自一至             四●一冊六銭●自五至             八●一冊六銭五厘●郵             税一冊に付二銭   最上等和紙摺り美本 小学用毛筆畫帖世間其数多しと雖も多くは編成の順序 を誤り或は用筆粗雑に過ぎ以て手本となすに足らず偶 々技術の取るへきものあれは多くは教育に経験なきも のゝみ大橋先生夙に之を憂ひ多年教育に従事せられ たる経験と学識とにより師範学校生徒に授けらるゝ処 と附属小学生徒習字の実験とに徴し且つ一般小学校の 実際を参考し猶教育諸大家の意見をも叩き再三訂正の 上編纂せられたるものなれば小学習畫帖中他に比類な きを信す乞ふ陸続御採用の栄を賜はらんことを  発行所 《割書:神田區通新石町|三番地》東陽堂 【右頁下段】   《箱:日本風俗史》下編            再版            出来 上編金八拾五銭郵税拾貮銭●下編金壱圓七拾銭 郵税四百目二対する小包料ヲ申受  但下編ヲ便利ノ為二冊二分裂せし故製本料金拾  銭ヲ増ス 古を今に現じて稜々火を見るが如くなならしむるもの風 俗史を推すべし戦争を記し政治を説き以て歴史の能事 了れりとなす勿れ歴史を修むるもの文学史の必要なる を知る誰か知らん風俗史の最も必要なるをされば近頃 世人が風俗の出づるを待つこと旱天に雲霓を望むが如 し弊社其機運に逼られ大方の望に副はんと欲し曩に平 出藤岡二氏の稿を得て出板せり此稿二氏が数年研鑽の 餘に成り記述明細考證確実加ふるに大々多数の有益な る挿畫を弊社の独得の石版を以て彫る世人評して近来 無比の好著述とす其評掲げて当時の諸新聞雑誌にあり 以て本書の価値を知るべし本書一度世に出て直に上編 を再板しまた忽に下編を売盡し大方諸君の厚意に負 くこと少加ラザリ氏が今や下編再板成り上編又 将に成らんとす 後編は繙読の便利 の為め二冊に別ち訂正増補 する所あり《割書:請ふ一本を繙いて世評の欺かざ|るを知られよ》 発行所《割書:神田區通新石|町三番地》東陽堂支店                   (電話九七〇) 【左頁上に】 臨時増刊 風俗画報 百二十六号 洪水被害録 明治廿九年十一月一日 【右頁上段の上】 《割書:風俗畫報|臨時増刊》◯大小瑞被害中巻目次          明治二十九年十一月一日初兌  ◯記事                ●長野県下の水害            ●愛知県下の水害            ●岐阜県下の水害            ●丹波福知山の水害            ◯挿畫各名家揮毫           ◯表紙絵 洪水被害惨状を極むるの圖   ◯口絵 神戸市荒田町宮本某家族遭難の圖   ◯長野県              ●松本古屋河岸惨状の圖  ●信州丹波島鉄橋破壊の圖 ●松本小学校破損の圖 ●上浅間松の湯惨状の圖 ●東町浸水の圖    ◯愛知県 ● 犬山街道浸水の圖 ●高間村字瀬古浸水の圖 ●萬場街道浸水の圖 ●大治村浸水の圖 ●一色村浸水の圖      【右頁上段の下】 ●万須田村浸水の圖 ●一色村明徳橋破壊の圖   ◯岐阜県 ●福岡村堤防より浮屍を観るの圖 ●高須町横井某避難の圖 ●今尾町警察署外廿戸餘崩 ●高須馬目村八十戸崩潰の圖 ●高須町浸水の圖 ●長良村家屋破壊の圖 ●塩喰村中島某の家屋浸水の圖 ●長良村大水家屋破壊の圖 ●長谷川某の家族炊出を得て生命を全ふする圖 ●日下丸村堤防上炊出を為すの圖 ●高須町浸水の圖 ●高須警察署舟中にて事務を扱ふの圖   ◯福知山 ●吉田某遭難の圖 ●洪水の際長町通出火の圖 ●家屋戸倒潰の圖 ●死体発掘の圖 ◯岐阜三重愛知三県下水害地略ず 【右頁下段】 【横書きで】 風俗畫報売捌所 大売捌所 【縦書】 京橋區尾張町二丁目     東海堂 神田區表神保町       東京堂 京橋區鎗屋町十四番地    北隆堂 麹町區上六番町       日成堂 神田區錦町         武蔵屋 京橋區鎗屋町        良明堂 京橋區南鍋町        信文堂 麻布區長坂町五十番地    旭 堂 大坂備後町四丁目      岡島支店 京都三條通富小路角     便利堂 京都仏光寺通烏丸東入    東枝律書房 神田區裏神保町二番地    文錦堂 神田區神保町        吉岡書店 本郷區元富士町       田中書店 本郷區元富士町       盛春堂 横浜弁天通四丁目      丸笠書店     京都市寺町通二條下ㇽ    山田直三郎 京都市寺町四条上ㇽ     文求堂 北海道札幌區南三條西二丁目 廣目屋新聞鋪 北海道札幌南一條西二丁目  玉振堂 京都河原町二條下ㇽ二丁目  大黒屋書鋪 陸前国仙台国分町五丁目   佐助書店 北海道函舘末広町      愛心軒 羽後国酒田上台町      鈴木喜八 越後国新潟市古町通九番地  板津新聞鋪 新潟市並木町        荒川新聞店 金沢市石浦町        宇都宮書店 ●風俗畫報定価 壹部十銭◯六部前金五十七銭◯拾二部前金壹円◯八銭 注意 東京市外配送の分は壹冊に付き金壹銭宛の郵税申受    候代価払込は神田郵便局へ宛て為換を以て振込まるゝ    事郵便切手代用は必壹銭切手にて定価の壹割増 広告料《割書:五号活字廿八字詰一行一回金拾銭但し行数回数多少|によらず一切割引なし再版の節は別に広告料申受くべし》 発行所 東京神田區通新石町三番地            東陽堂支店   発行兼印刷人      吾妻健三郎   編集人  神田區駿河台袋町十壹番地               野口勝一        小石川區掃除町三十三番地              神戸市荒田町宮本某家族之惨状【上段】 《割書:風俗画報|臨時増刊》洪水被害録《割書:明治二十九年|十一月一日発行目》       ◯記  事    ●長野県の水害 七月二十一日 來増々(らいます〳〵)出水小県郡大屋橋 落(お)ち二十餘人死傷し松本 其他 浸水地多(しんすいちおほ)く人畜の死亡(しぼう)あり 南佐久郡 千曲川 水量(すいれう)一丈八寸に及(およ)び (平水一 尺(しやく)二寸)同川 架(か)する橋梁(けうれう)三箇流落し其他(そのた)道路、堤防、田園(でんゑん)等の被害尠からず 北佐久郡 千曲川、蛇堀川 等増水(とうぞうすゐ)のため沿岸 人家(じんか)二戸浸水其他 堤防等破壊あり又 同郡(どうぐん)東長倉村 字(あざ)追分 地籍(ちせき)に於て信越鉄道線路 破壊し汽車通(きしやつう)ぜず 小県郡 千曲川に架設(かせつ)せる県道 筋(すじ)大屋橋 (長(なが)さ六十間)国道筋 神川に架設(かせつ)せる神川橋 (長(なが)さ二十間)及(およ)び渓流(けいりう)に架せる矢沢、矢 出沢の二 橋流落(けうりうらく)し死亡者二十 人(にん)あり交通 杜絶(とぜつ)す其他堤防田園等 の被害尠(ひがいすくな)からず 諏訪郡 県道(けんどう)岡谷街道横河川 出水為(しゆつすいため)に同川に架せる橋梁(けうれう)二箇 流落し交通(かうつう)を絶てり其他 堤防(ていぼう)の破壊等多し 伊那郡 天竜(てんりう)、三峯、小沢、与田切(よたぎり)の各川出水し県道(けんどう)三州街道筋 与田切川に架(か)せる与田切橋 (長(なが)さ二十五間) 流失し交通を絶ち 各川沿岸の堤防等(ていぼうとう)被害尠からず 上高井郡 千曲、市松 其他(そのた)の諸川 大(おほい)に氾濫し道路(どうろ)橋橋梁等破壊し 県道谷 街道及(かいどうおよび)須坂街道の交通(かうつう)を遮断し家屋(かをく)の浸水するもの凡そ 二百の多(おほ)きに及び耕地(かうち)の被害 頗(すこぶ)る多し 下高井郡 千曲川 洪水(こうずゐ)のため沿岸(えんがん)の諸村数百 町歩(ちやうぶ)に浸水し又夜 間瀬川 暴漲(ぼうてう)のため堤防(ていぼう)を破壊し人家数(じんかすう)十戸浸水し被害尠からず 上水内郡 犀川 出水(しゆつすゐ)のため家屋三 戸(こ)及 県道(けんどう)大町街道筋明治橋流 【下段】 失交通を絶(た)ち及大豆嶋村に於(おい)て堤防二 箇所(かしよ)破壊し田畑の浸水尠 からず又(また)千曲川 増水(ぞうすゐ)のため柳原村に於(おい)て人家十五戸及田畑十数 町歩 浸水(しんすゐ)し鳥居村 大字(おほあざ)浅野部落に於(おい)て三分の一浸水其他道路四 箇所 破壊(はくわい)橋梁三箇を流失(りうしつ)し朝陽村に於ては堤防(ていぼう)四十間を破壊し 家屋百九十五 戸(こ)及 田畑(でんばた)百三十五町歩に浸水せり又(また)鳥居川増水 (平水(へいすゐ)より一丈餘)のため沿岸(えんがん)田畑及家屋三十四 戸(こ)に浸水し落橋 せしものもの四 箇所被害(かしよひがい)尠からず 小田切村に於て山崩のため人家一 戸(こ)潰没し人畜(じんちく)に死傷(しゝやう)なし 駒沢川出水 国道筋(こくどうすぢ)に架設せる橋梁 墜落(つゐらく)北国 街道(かいどう)の交通を杜絶せ り 信越鉄道 線路中牟礼(せんろちうむれ)、柏原 間(かん)及牟礼、豊野(とよの)間に於て数箇所の破 壊を生(しやう)じたるため汽車不通(きしやふつう)と為れり 下水内郡 千曲川 増水(ぞうすゐ)のため本部より下高井郡(しもたかゐごほり)に通ずる船橋二 箇所 撤去(てつきよ)のため交通を絶(た)てり 西筑摩郡 木曽川 出水(しゆつすゐ)のため国道を破壊(はくわい)し橋梁を流失(りうしつ)し又矢沢 川出水のため福島町(ふくしまちやう)人家に浸水 国道筋(こくどうすぢ)矢沢橋墜落せり 東筑摩郡 薄、女 鳥羽(とりは)の二川増水薄川の堤防(ていぼう)三百六十 間(けん)、女鳥 羽川の堤防百五十 間(けん)を决潰(けつくわい)し松本町に浸水(しんすい)し家屋を流失し人畜 死傷あり惨状(さんじやう)を極む 更級郡 犀川出水量二十一尺 (平水(へいすい)六尺五寸)に及(およ)び青木島村 大字 丹波島(たんばじま)人家の裏堤防を破壊(はくわい)し人家二 戸(こ)を流失(りうしつ)し田畝道路等 の被害(ひがい)頗る多し 埴科郡 千曲川 増水(ぞうすい)のため松代町(まつしろちやう)に於て家屋 百 餘戸(よこ)東條村に於 て四十 餘戸(よこ)、寺尾村に於て二十餘戸 浸水(しんすゐ)し又関屋川出水のため 家屋五戸 流失(りうしつ)、堤防三 箇所(かしよ)破壊其他 道路(どうろ)田園等の被害甚だ多し 以上は二十一日 夜(よ)まで到達(たうだつ)したる各地の報告(ほうこく)に依り調査したる ものなれども郵便(いうびん)、汽車共に不通(ふつう)尚ほ今朝に至り管下(くわんか)一般電信   【右頁上段】 亦 不通(ふつう)に帰したり        被害の惣数 (七月廿六日長野県知事発) 只今 迄(まで)分りたる被害 総数(そうすう)左の如し  死傷        一百0九  家屋流失      三百四十二  破壊        二百二十三  浸水        一万四千七百八十八  道路破壊      二万五千六百十間  橋梁流落      五百十四  堤防破壊      一万八千九百八十二間  土地流失      二千七百四十五町歩  浸水        一万二百三十九町歩 其後左の詳報(しやうほう)を得たり 七月二十一日 長野県下(ながのけんか)に於ける各大川の暴溢(ぼういつ)は前代稀有の惨事 といへり千曲川、犀川、木曽川、天竜川を首(はじ)め爾餘(じよ)の諸川共に満 水量は一 丈餘(じやうよ)乃至二丈 餘(よ)に及び沿岸(えんがん)に位する町村は孰れも惨害 を被らさるは無(な)かりき中(なか)にも被害の最(もつ)とも甚はだかりしを犀 川、奈良井川、薄女川、鳥羽川等の合流点(がうりうてん)なる松本町附近及び犀 川沿岸の南北(なんぼく)安曇郡と為(な)し次(つぎ)を犀川沿岸なる上水内郡水内村附 近、次(つぎ)を千曲川、犀川 合流(がうりう)一 帯(たい)の地なる更級、埴科、上高井上 水内 等(とう)四郡の平坦地(へいたんち)とし次を上下高井郡に跨(またが)れる平坦地の延徳 平、次を下水内郡(しもみずうちごほり)飯山町、常盤村(ときわむら)下高井郡木島平附近とし次(つぎ)を 千曲川 沿岸(えんがん)なる小県郡 上田(うへだ)町附近、次を南佐久郡(みなみさくごほり)野沢村、臼田 町近傍、次を諏訪郡(すはごほり)諏訪湖附近、次を天竜川(てんりうがは)の沿岸なる上伊那 郡伊那村、下伊奈(しもゐな)郡、次を木曽川(きそがは)沿岸の西筑摩郡福島町、日義 村宮の越駅 近傍等(きんぼうとう)の各地とす今其(いまそ)の状況の概要(がいえう)を左に掲ぐ 松本町附近 県下(けんか)第一の惨害(ざんがい)を被りたる松本町(まつもとちやう)は二十一日に於 【右頁下段】 て町の東方(とうはう)り流れ来(きた)る女鳥羽川暴溢して浅間橋以下は左右の 石提孰れも数(すう)百 間(けん)づゝ一時に决潰(けつくわい)し此より注ぎ入るゝ濁水は流 れて同町の大字(おほあざ)北深志一円を浸(ひた)し尚ほ其の下流(かりう)に於て左右の堤 防は夥(おび)だしく破壊せられ附近(ふきん)の田畑は一面に湖海(みづうみ)となれり之と 同時に町(まち)の南方に於て田川(たがは)、牛伏川等と合(がつ)して犀川に入る薄川 は博労町東裏に於て先づ石提(せきてい)八十 餘(よ)間の决潰を来(きた)し引続き字総 作場の石提も亦(また)五十餘間の决潰口(かつくわいくち)を生じ為めに南深志一円に浸 水し其(そ)の水勢(すいせい)頗ぶる激烈(げきれつ)なりしを以て澪筋に当(あた)りし処は南北深 志共に家屋(かをく)の流失せるもの多(おほ)く随て人畜(じんちく)の死傷も亦(また)少なからず 同時に御幸橋、常盤橋(ときわばし)、横田橋、浅間橋、千歳橋、新橋等悉く破(は) 碎(さい)流失せざるは無(な)く住家を流(なが)され家族を失(うしな)ひたる罹災民は船に 救はれて泣(な)く〳〵難を高地(かうち)の寺院、官衛に避(さ)くる等(とう)其の悲惨言 ふべからず越(こ)江て二十三四日の頃(ころ)に至(いた)り漸(やう)やくにして浸水の減 却せるに遭(あ)ひ流失を免(まぬ)かれし家屋内には皆(みな)床上数尺の泥土を置 かれざるは無(な)く毎戸 孰(いつ)れも家人 総掛(そうかゝ)りにて其の泥土(でうど)を屋外に排 出したれば一 時(じ)は各街の道路上(どうろじやう)に泥土の丘(をか)を築き軒下を傳ふに あらざれば通行(つうかう)も出来(でき)ざりしといへり 而して又 水源(すゐげん)を乗鞍嶽に発(はつ)し松本町の北方(ほくはう)に於て犀川に合流す る梓川は満水量(まんすいれう)一丈二尺餘に及び波多村(はたむら)、藤の宮、佐合、新村堰 口、四平花見等の処(ところ)に於て石提の决潰(けつくわい)、破損せる箇所其の数を 知らず随て水(みづ)は沿岸の村落(そんらく)、田畑を衝(つ)きて流るれば其の水勢の 烈しかりし所(ところ)に在(あつ)ては家を流し人を殺し田畑をして荒廃に帰せ しめしも少(すくな)からず此の他田川(たたがは)、奈良井川、鎖川等の沿岸(江んがん)に於け る町村の惨害(さんがい)孰れか甲乙を知(し)らず 犀川筋及び千曲川犀川の合流点 犀川の下流(かりう)及び其の千曲川と 合流するの地点(ちてん)に於て被害の状況(じやうきやう)亦甚はだ惨を極(きは)む此地点 は埴科更科、上高井(かみたかゐ)、上水内等の数(すう)ヶ郡に亘(わた)り平坦地最とも多 【左頁挿絵の中に】 松本水害古屋河岸惨状之図 信州丹波嶋 【上段】 き場所(ばしよ)なるが故に田畑(でんばたけ)に被りたる損害(そんがい)幾何なるやを知らず埴科 郡に在(あつ)ては千曲川の大堤防(だいていぼう)五加村附近に於て百 餘間(よけん)の決潰を生 じたる外、沈床、岸圍等の破壊(はくわい)少からず又(また)上水内郡に在ては千 曲、三念沢、油沢、熊取、田子、鳥居、浅川の七川暴溢して大 小堤防の決潰(けつくわい)百九十二間に及(およ)び所在の家屋(かをく)殆ど皆浸水して中に は破壊 流亡(りうぼう)せるものあり又(また)更級郡中害の最(もつ)も大なりしは中澤、 共和、御厨、笹井、稲里青木島、真島、西寺尾、小島田、東福 寺の各村(かくそん)にして家屋の流失(りうしつ)せしもの八戸、同破壊(どうはくわい)二十餘戸あり 其の浸水(しんすゐ)せしものに至(いたつ)ては八百餘 戸(こ)のの多きに及び田地(でんち)の流亡約 百町歩、畑地の流亡(りうばう)八十餘町歩あり堤防(ていばう)、道路、橋梁等の破壊流 失は其(そ)の数(すう)を知らず此(こ)の沿岸一 帯(たい)の地に於て鉄道(てつどう)線路の破壊最 とも甚はだしきは牟礼(むれ)、豊野間にして今は僅(わづ)かに枕木を組み上 がて仮(か)りに軌道を敷設(ふせつ)し以て列車(れつしや)を通はしつゝ一 方(ぽう)には日夜多 数の工夫(こうふ)を役して修理(しうり)せり 千曲川下流の沿岸 下高井(しもたかゐ)郡中野町下水内郡飯山町同郡戸狩村 附近の地最(ちもつ)とも惨を極(きは)めたり此の兩郡内に於(お)ける千曲川の水量 は立ヶ花に於(おい)て三丈餘に及び延徳沖と称する部分の地は悉皆(しつかい)浸 水し此(こ)の地(ち)の道路を通ぜる電信柱(でんしんはしら)は一時其の上部を水面下(すゐめんか)二三 尺の処(ところ)に隠(かく)したり斯れば警官郡吏(けいくわんぐんり)は舟筏を浮(うか)べて必死人命の救 助に奔馳せしも尚(な)ほ溺死(できし)せしもの数名あり家屋(かをく)の流失は数十を 以て数(かぞ)ふるに至り其(そ)の惨況言(さんきやうい)ふに忍びざるものありしと云ふ 諏訪湖附近 上川 筋(すじ)に於て四賀村、字(あざ)白狐島の堤防(ていばう)五十餘間と 上諏訪町 字(あざ)蓮台場の堤防東岸及び字西 渋崎(しぶさき)の堤防 共(とも)に役十間づ ゝの破壊を生(せう)じ加(くは)ふるに諏訪湖の溢水 非常(ひじやう)なりし為め上諏訪町 及び四賀、豊田(とよだ)、湖南の各村(かくそん)は一様に浸水し耕地(こうち)数百丁歩を害 せらるゝに至(いた)り又同時に下諏訪町に於ても床上(しやうじやう)数尺の浸水を 受け為めに溺死者(できししゃ)二名を出し田畑(でんばた)数丁歩を流亡するに至(いた)りしが 【下段】 同地方に於(おい)て最とも大切(たいせつ)なる数ヶ所(しよ)の製工場は一も破壊損傷を 受かたるもの無(な)く孰れも一 時多少(じたせう)の浸水を被(かふむ)りしのみにて無事 なるを得(ゑ)たるは不幸中(ふかうちう)の幸なりしと言(い)ひ居(を)れり 松本の水害に就(つゐ)ては更に左(さ)の報道(はうどう)ありたり 信州松本町の附近(ふきん)を流るゝ女鳥羽川(めとはがは)及び薄川は去(さる)廿一日の朝増 水して忽(たちま)ち沿岸に汎濫(はんらん)し松本町一 面(めん)をして湖水と化(くわ)せしめたり 其被害の甚(はなは)だしかりし箇所(かしよ)は博労町、本町(ほんまち)五丁、幅上、東町、 櫻河岸、天神、上土等(かみつちとう)にて住民は何(いづれ)も家財を流亡し辛(からう)じて高地に 遁たるが其中(そのうち)拾餘名は遁路(にげみち)を失ひ濁水の間(あひだ)に捲込まれて溺死し 去廿三日 迄(まで)に死体の発見(はつけん)せしもの四名に過(す)ぎざりき市中(しちう)にて被 害を蒙(こうむ)らさりし箇所は舊丸之内(きうまるのうち)及び田町 新田(しんでん)町のみにて其他は 多少の被害(ひがい)を見ざるなく東町(ひがしまち)の水は鍛治町の水(みづ)と合して一大瀑 布をなし女鳥羽川(めどはがは)に注ぎ上土の水(みづ)は大流となりて緑(みどり)町堀に注ぎ 為に水先(みづさき)に向たる家屋(かをく)四戸は堀中に埋没(まゐぼつ)せられ水の深(ふか)さ丈餘に 及びたりき緑町の東側(ひがしがは)卅餘戸の二階下は泥濘(でいねい)に没(ぼつ)し且道路の一端 陥落して長(なが)さ三間餘深さ丈餘(じやうよ)の池を現す又(ま)た神道公会所より郵 便局前迄は神道堀(しんどうほり)又は女鳥羽川の溢水(いつすゐ)して深さ四尺より五 尺(しやく)に 及び神道公会所前の堀(ほり)は殺生(せつせう)禁断の場所(ばしよ)なりしに溢水のため鯉 鰻、亀、鯰等の流出(ながれいで)で警察署前の路上(ろじやう)に躍りければ人々(ひと〴〵)之を捕へ んとて非常に雑沓(ざつたう)を極め居れり本町五丁目より博労町、出川、新 谷辺は床上に泥土(でいど)を押上けられ其他(そのた)横町より東町(ひがしまち)に通する大橋 流失せしため東詰(ひがしづめ)は人家十餘 戸流亡(りうぼう)し松本尋常高等小学校は女 鳥羽川の奔流(ほんりう)する水勢のために同(おな)じく流失の難(なん)に罹(かゝ)りたりき市 外にては南深志一面水に侵(ひた)され本郷町 (松本町(まともとちやう)の北東)は田畑 浸水廿五 町歩(ちやうぶ)、流失田畑五町歩、其他納屋塀門(そのたなやへいもん)の破壊流失其数 を知らず此邊(このへん)の桑園は浅間(あさま)地方養蚕家の宝庫(ほうこ)とも称すべき場所 なりしに一 朝水害(てうすゐがい)に罹りて河原と化(くわ)したるは養蚕家のために非 【右頁上段】 常の損害(そんがい)なるべし女鳥羽川に架(か)せる大橋、一ッ橋(ばし)、新小路橋(しんこうぢばし)、 清水橋、幸橋等(さいはいばしとう)悉く墜落し残(のこ)りたるものは千歳橋(ちとせばし)の一橋のみ 右に就(つ)き松本町 役場(やくば)にては焚出をなし開口(かいこう)東筑摩郡長、菅谷松 本町長は各金(かくきん)二十円 義捐(ぎえん)したりと云ふ 二丈一尺の水量、長野県(ながのけん)に於ける今回の出水は去る廿八 年(ねん)の大(だい) 洪 水(ずゐ)に比すれば二尺の増水(ぞうすい)にて七月二十一日正午 頃両郡橋(ころりやうぐんばし)の水 【右頁下段】 量標は実(じつ)に二丈一尺を示(しめ)したり 木筏を以て通ず 長野県 長野初郷村(ながのむはつさとむら)の浅川外 数川(すうせん)増水せしため 田畑の被害尠(ひがいすく)なからず又朝陽村の堤防(ていぼう)三十 間(けん)ばかり決潰し流失 耕地四五 町歩(ちやうぶ)家屋浸水二百 戸(こ)に及び長沼村(ながぬまむら)大字赤沼の一面は木 筏を以て僅(わずか)に通行したりと云ふ 【左頁挿絵の中に】 長野松本尋常高等小学校水害破損の圖 松本水害上浅間松の湯惨状の圖 松本町水害東町暴流の圖  ●愛知県の水害 愛知県の水害 庄内川上流(じやうりう)玉野勝川矢田の三川堤防决潰西春日 井郡一円 浸水(しんすゐ)軒上に達し死傷一千人と称すれども詳細(しやうさい)は分らず 警察本部(けいさつほんぶ)は舟二十五艘を徴発して救助(きうじよ)に尽力せり(《割書:九月十日|名古屋発》) 又 愛知県下去る七日より暴雨(ぼうゝ)今尚ほ歇まず庄内川堤防破壊七 ヶ所東春日井郡愛知郡 人畜(じんちく)死傷多し木曽川も亦堤防 破壊(はくわい)せんと し警戒(けいかい)怠りなし名古屋市は堀川 溢(あぶ)れ浸水家屋千七百餘熱田市二 百六十餘 汽車(きしや)の不通電信の不通(ふつう)折々なり(同上) 又 勝川及玉野川堤防 决潰(けつくわい)に付被害 面積(めんせき)凡そ三百町歩内二條村 被害最も酷(はげ)しく浸水一丈五尺に達したる箇所(かしよ)あり警察の手に於 て昨日迄に救上(すくひあ)げたる遭難者は八百二十二人にして一時 気絶(きぜつ)し たる者も大抵は蘇生(そせい)し死亡者は少し(九月十一日名古屋発) 愛知県の出水 十七日 夕刻(ゆうこく)より引続き降雨(かうゝ)の為め各川出水木曽 川九合餘矢矧川一升餘庄内川一升 豊川(とよかは)七合餘に達せり右四河川 の内 木曽川(きそがは)矢矧川最も危険(きけん)に迫る専ら防禦中木曽川堤の内 缺損(けつそん) する処数箇所内堤敷の内法へ泥沙(でいしや)を噴出する箇所のあり附近の 人民(じんみん)は悉く高処堤防破壊し家屋(かをく)に移転(ゐてん)せしめたり矢矧川小支流 浸水人畜に死傷なし(九月二十二日正午十二時愛知県発) 愛知県 海東、西春日井、中島、丹羽の六郡は浸水の為 め湖の如く東海道(とうかいだう)は深さ四五尺に達し路上(ろじやう)を舟にて通行せり其 他の郡も右と同様(どうやう)の処あり木曽川、庄内川等 堤防(たいぼう)切れ浸水屋上 に達し最も危険(きけん)の個所大なるは四ヶ所小なるは多数(たすう)目下続々破 堤の報告(ほうこく)に接し居れり(九月九日午後五時五十分愛知県知事発) 電線水害 名古屋地方出水電信線 被害(ひがい)に付去る九月八日以後名 古屋局より逓信省(ていしんしよう)への報告に係(かゝ)る概況(がいきやう)左の如し 【右頁上段】 先日来益々増水長良川揖斐川間 線路(せんろ)は過半水線上に達し同線引 上に着手(ちやくしゆ)せり大垣高須間水線上に達し遂に不通(ふつう)となれり北方、 関方面も電柱(でんちう)皆浸水せしも未だ通信に支障(しゝやう)なし各方面共益々増 水転々危険(きけん)を加ふ目下全力を盡して救保(きうほ)に忙し(九月八日名古屋発) 各所増水益々多く長良川 揖斐川間(いびがはかん)は一円水線上に達せり九日來 全力(ぜんりよく)を盡し大抵引上げしも堤防决壊先に当りたる電柱(でんちう)一本流失 せり右 修理(しゆり)の際船激流に捲込れ電柱に衝突(しやうとつ)忽ち破損乗込の工 夫は皆 上陸(じやうりく)せしも人夫一名今に行衛(ゆくえ)不明なり(同上) 名古屋多治見間加治川堤防欠壊 近傍(きんほう)汎濫恰も海の如く電柱大凡 そ四十本 深(ふか)く浸水或は全く没(ほつ)せり(九月九日同上) 大府苅谷間坂井川 漲溢(ちやういつ)電柱凡そ三十本深く浸水せしも充分予防 を加(くはへ)へ当局以東各線安全 故障(こしやう)なし半田方面電柱浸水甚しきも通 信 支(つか)なし名古屋津島庄内川 氾濫(はんらん)電柱浸水或は流失不通となれり (九月十日同上) 愛知県水害 本月六日以来の水害は今迄の調査にて死者二十、 負傷者十、住家 全潰(まるつぶれ)三百九十七、流失(りうしつ)百五十三、半潰八百九十 一、倉(くら)其他 建物(たてもの)全潰二百六十三、流失十五、半潰百五十七、浸 水 家屋(かおく)六万三千五百五十六、船舶(せんはく)流失三十六沈没尚取調中被害 は愛知、海東、東春日井の三郡最も多し(《割書:九月十五日午後三時|廿分愛知県知事発》) 同上、内務省の視察員(しさつゐん)窪田参事官愛知県水害報告は左之如し ◯堤防 切れ所延長六千八百六十六間此箇所百八十七欠け延長四万千五百三十四 間此箇所千百廿二◯橋梁流失及破所百七十五ヶ所◯国道破損延長一万八千九十間 余◯救助人員凡そ一千人なり    ◯愛知県暴風雨の詳報を記すれば左の如し 風力及び風向 名古屋測候所の観測(くわんそく)に拠れば同地方は去る八月 三十日の夜八時より南方の強風(きやうふう)と為り同十時頃より烈風(れつふう)の範囲 【右頁下段】 に達(たつ)し同十一時十五分 最強(さいきやう)一時間六十哩の速度(そくど)を示し翌三十一 日午前二時に至りて強風に戻(もど)り漸々南西の風向(ふうかう)に移ると共に風 勢も次第(しだい)に衰へ其朝に至りて全く静穏(せいおん)に帰せしが右烈風四時間 内に於ける風雨の凄(すさま)じさは実に名状(めいじやう)すべからざる有様にて去る 二十三年測候所 設立(せつりふ)以来の大風力なりし 名古屋市の被害 風力已に前記(ぜんき)の如しなりしかば市郡(しぐん)共に其被 害の著大(ちよだい)なりしは云ふ迄も無けれど目下尚ほ其筋の取調中(とりしらべちう)に属 すれば先づ其已に取調べを経たる分より掲(かゝ)げんに名古屋市にて は家屋 全倒(ぜんたう)三十九戸、同半倒三十九戸、仏閣(ぶつかく)全倒三箇所、小学校 倒潰(たうくわい)一棟、土蔵倉庫全倒五箇所を始めとし其他(そのた)工場の倒潰、家 屋の大小破、門戸墻壁(しやうへき)の倒壊、電信柱の転倒、喬木の摧折(さいせつ)等実 に枚挙(まいきよ)するに遑(いとま)あらず第四師団営舎の如きも砲兵砲車廠、弾薬 詰換所(つめかえしよ)を始め倒壊せるもの二十餘棟の多きに及び其他の建物(たてもの)孰 れも多少の損害(そんがい)を受けざるは無かりし尤も市内にては即死(そくし)男一 人、負傷(ふしやう)男一人に止まりて此他には死傷者も無かりしと云ふ 三井製絲場と繭干燥會社 西春日井郡金城村なる三井 製絲場(せいしじやう)に ては工女(こうじよ)等を堅固なる倉庫に移して警戒(けいかい)怠りなかりしが同夜十 時三十分頃に至りて繭晒(まゆさらし)工場の俄然(がぜん)倒潰したるが為め人夫一名 即死(そくし)し三人は微傷(びしやう)を負ひたる由又名古屋市の繭干燥會社にては 干燥舎一棟半、倉庫三棟 倒潰(たうくわい)したれば貯蔵の繭千二百餘石は全 く壁土(かべつち)又は塵埃に汚損(おそん)せられ一切の被害高は五万円程に達すべ しと言ふ 六日以来の大雨は名古屋測候所 開設(かいせつ)以前に在ても恐くは明治元 年 (入鹿池の破壊) 以後決(いごけつ)して之れなき大水(たいすゐ)にて六日より九日 午前九時迄の降量(かうりやう)は五百十六粍の雨量此水一坪に付九石六斗三 升二合名古屋丈の面積(めんせき)四千四百十一万八千石に当(あた)る而して九日 午前(ごぜん)九時以後も引続て降雨已まず斯(かゝ)れば名古屋市内にても上町 【挿絵】 愛知県下水被害の圖 犬山街道の洪水 三階橋□□北向にて □む所にて松林の中 央は街道より其左 右は耕地の浸水せる□ 松間に沈めて数多の 茅屋は東方ゟ流 来□□る者 海東郡大治村 大字□□流 失家屋の惨状 東春日井郡高間村 大字瀬古一円浸水 海東郡大治村の浸水 海東郡萬場街上の浸水 愛知一色村の浸水 海東郡万須田村の浸水 海東郡万須田村の浸水 愛知郡北一色村□□□の破壊 酉申十月   秀采写 【左頁上段】 向の高所(かうしょ)も十中八九は水吐出来ず皆 家宅内(かたくない)に浸入し道路悉く川 となり下町向は浸水(しんずい)床上に及び浸水家屋二万餘戸床上に及(およ)びた るも数千戸を下らざるべし 又東春日井郡三階橋 附近(ふきん)は庄内川堤防破壊の為め大惨害(だいさんがい)を受け たり同地方は明治元年の大水に堤防(ていばう)を破壊したるも格別の大事 に至(いた)らざりしより村民も深く念頭(ねんとう)に懸けざりしに九日午前二時 比高間村、二城村にて庄内川の堤防(ていばう)二百間餘も欠潰して二村を 襲(おそ)ひ忽ち一面の海(うみ)と化し二村五百五十餘戸は五分間にて悉く水 中に没し僅に屋根上(やねうへ)に出でしものゝ生命(せいめい)を助かり居る姿なる も舟なき土地とて救助(きうじよ)の法もなかりしを警官(けいくわん)は臨時二十五艘の 救助船を各所に徴発(ちやうはつ)し大八車にて運送(うんそう)し午後四時過に三階附近 に到着(たうちやく)したりとのことなれば追々 救助(きうじよ)の道を開きたるなるべし庄 内川筋の决潰(けつくわい)は独り此処に止らず成願寺、庄内、川中附近其他枇 杷島方面に浸水甚だしく大惨害に切迫(せつはく)せる報告 引(ひき)も切らず又愛 知郡下の一色は海東郡福田 (庄内川筋)の堤防(ていばう)决潰せし為め水袋 の地位(ちゐ)に陥り浸水屋上に及び人命(じんめい)の損傷少なからずと熱田町も 浸水(しんすゐ)に及びたる家屋五百五十餘戸施米 救助(きうじよ)を受くるもの千六百 五十餘人に及べり    ◯名古屋市の被害 和泉町(いづみてう)警察署の部内(ぶない)倒家一戸 (柳町浅野藤作)土蔵倒壊一ヶ所 (蟹江町)巡査派  出所 (江川町全潰、藪下町半潰)學校倒潰一棟 (押切町榎尋常小学校二十七間一棟)  浸水家屋 田町六十七戸、蘇鉄町十八戸、内屋敷町七十二戸、人力車三十輌沈没 (笹島停車場前私立駐車場倒壊の為め溜池へ沈没)並木転倒新柳町通並木三十五  本中折十二本、火の見櫓三ヶ所 (藪下町東柳町本町)電燈柱倒五本 鍋屋町(なべやまち)警察署部内の被害(ひがい)家屋全倒廿七戸、同半倒廿六戸同大破百五戸、同小  破三百四十七戸、物置小家全倒廿四棟、同半倒十八棟、同大破十四棟、同小破二棟、  板塀全倒二百六ヶ所、同半倒五十九ヶ所、同破壊十三ヶ所、門戸墻壁全倒二百十九  ヶ所、同破損廿五ヶ所、諸工場全倒十四ヶ所、同大破二ヶ所、寺院大破一ヶ所 (高岳 【左頁下段】  院)同小破一ヶ所、道路破損一ヶ所、火の見櫓倒潰二ヶ所、土蔵其他大破七棟、同小  破十二棟、煙突全壊三ヶ所、鳥居倒レ二ヶ所、フヲフ杭折一ヶ所 (名古屋測候所)公  設便所倒一ヶ所、立木折損二十七本百四十七本 門前町(もんぜんてう)警察署部内の被害(ひがい)死者男一人、傷者男一人、家屋全倒十一戸、同半倒  十三戸、仏閣全倒二ヶ所、同半倒一ヶ所、公立小学校大破一ヶ所、倉庫全倒四ヶ所、  職工場全倒三ヶ所、錬武場全倒一ヶ所、手洗所同上一ヶ所、電信柱四本同上  一本、半倒三本、樹木目通り廻り三尺以上十二本、 (内に一丈二尺廻り一本)同上折  れ十六本、流失材木百六十二本 第三師団 営舎(江いしや)の被害(ひがい)砲兵砲車廠一棟破壊、第十九聯隊弾薬詰場所一棟破倒、  方面支署薬莢洗浄所一棟破壊、輜重馬糧庫一棟同上、元予備病院病室仮建物廿一  棟同上、方面支署仮砲車廠一棟 壊輜重廠仮倉庫一棟大破壊其他些少の損害巨多  あり ●熱田市街附近の被害 各所(かくしよ)の浸水何れも四五尺中に浸水八尺 に及びたる箇所(かしよ)あり、熱田海岸(あつたかいがん)木材及び船舶は皆神戸(みなかうべ)辺まで陸 上に漂(たゝよ)ひ来りて退潮(たいてう)の後其儘 陸上(りくじやう)にあり大混雑を極(きは)む神宮御境 内の立木数(たちきすう)十本折倒れ其他の各(かく)神社仏閣の境内(けいない)にて大木の倒れ たること二十 餘本(よほん)、熱田停車場裏浮島に至(いた)る田野(でんや)は一面に海水 侵入 小船(せうせん)の上陸しあるを見る(此海岸(このかいがん)より去る四五丁)呼続村 大字 豊田(とよだ)氷室新田 破壊(はくわい)一ヶ所 (長二百間)同圖書(どうどしよ)新田堤防破壊 長二十 間後尚(けんのちな)ほ調査する所に拠(よ)れば熱田浜(あつたはま)へ三百五十石積和船 三 隻(せき)ヒラタ船一隻 打揚(うちあ)げ、同町字大瀬古にて造船中(ざうせんちう)の三百五十 石積船体は風害(ふうがい)の為め破壊 飛散(ひさん)して形跡(けいせき)だも止めず、又(ま)た堀川 筋新橋際にて六百 石積(こくづみ)和船一隻 西堤(にしつゝみ)へ押上られ横(よこ)に倒れあり、 熱田 神宮(じんぐう)御境内弘法 手植(てうゑ)の楠倒れたり ◯蟹江の被害 同地方(どうちはう)の被害は蟹江川(かにえがわ)大字西福田にて東堤防八 九間決壊、福屋村(ふくやむら)字福田前新田 决潰(けつくわい)五十間、新蟹江村字鍋蓋新田 堤防決潰七八 間(けん)二ヶ所(しよ)、須成村内蟹江川 西堤防(にしていはう)决潰十五六間、 西の森村(もりむら)にて日光 川(かは)東堤防决潰 間数(けんすう)不明、行衛 不明(ふめい)二人、潰家 は亦少なからず      【右頁上段】 ◯愛知県の出水 愛知県下(あいちけんか)にて水害の甚(はなは)だしかりしは海西(かいさい)郡に て同地の河川(かせん)は去七月廿一日 午前(ごぜん)八時頃より増水し来(きた)りて午後 五時頃には殆(ほと)んど一丈三尺に達(たつ)し彌富村五明、木曽川 堤防(ていばう)に二 ヶ所の破損(はそん)を生じ今(いま)や大事に至(いた)らんとせし処(ところ)前岸なる三重県桑 名郡長島 輪中小島(わなかこしま)の堤防破壊せしため水勢(すゐせい)は其方面に向ひて奔 流し一 時(じ)は一丈位に減(げん)じたれども間(ま)もなく一 丈(じやう)二三尺となり同 夜十二時 頃(ころ)には前ヶ須(す)五 明(めい)の堤防は危険に迫(せま)りたれば附近の人 民は家具(かぐ)を片付け老幼を高所(かうしよ)に移し避難の準備(じゆんび)をなせしが幸ひ に大事に至(いた)らずして休(や)みたりき左(さ)れども立田輪中は溜水のため に家屋 概(おゝむね)ね浸水し又た大藤村(おほふじむら)大字芝中新田には三 箇所(かしよ)の損所を 生じ内(うち)一箇所は堤敷(つゝみしき)の内法へ泥砂を雑(まじ)へて噴水すること甚だし く尚ほ出水沿岸(しゆつすゐ江んがん)の低地に建設せる家屋は多(おほ)く浸水の難(なん)を蒙りた り 名古屋局長の報告 (七月廿二日午後九時廿分草津にて 名古屋局長発) 美濃地方 水害(すゐがい)に付岐阜 大垣(おほがき)垂井等の地方に出張(しゆつてう)視察せるに河水 暴漲堤防破壊 出水氾濫(しゆつすいはんらん)平地一面湖水の如し郵便線路(いうびんせんろ)完全に逓送 し得る者なく集配(しふはい)も一部分の外出来(ほかでき)ず岐阜垂井間には臨時(りんじ)便を 開くことに手配(てくばり)せるも完全の線路(せんろ)を得るの見込立(みこみた)たず水害の状況 は昨年より更(さら)に大(だい)なり 愛知県の水害 去る八月十一日の風雨(ふうゝ)にて名古屋市は中央部(ちうわうぶ)地 盤の高(たか)き所は差たる被害(ひがい)はなかりしも全(まつた)く浸水を免れたるは 広栄町通り南側(みなみがは)の八九町に過(すぎ)ぎず本町通、伝馬町(でんまちやう)通は床上三四 寸より四五 寸(すん)に及び日出町、上畠町(かみはたけちやう)等床上四五尺迄浸水せしは 百八十町 家屋(かおく)八千三百九十三戸 内(うち)床上に及びしもの五百十三戸 床下(ゆかした)七千八百八十戸の多(おほ)きに上れり、愛知郡(あいちごほり)は被害甚しき為め 未だ精確(せいかく)なる調査成(てうさな)らざれども被害は中央部(ちうわうぶ)より西南部に亘り 【右頁下段】 下の一色町、熱田町(あつたちやう)、鳴海町等は其最(そのさい)たるものなり何(いづ)れも屋根 良田の全部或(ぜんぶあるひ)は過半を浸され其 惨状筆紙(さんじやうひつし)に盡し難し、東春日井 郡は庄内川筋に添ふ高間村(たかまむら)及二城村は非常(ひじやう)の損害にて両村(れうそん)合せ て五百五十戸悉く屋上(おくじやう)まで浸水し逃(にげ)げ後(おく)れたる人々の倉庫或は 階上に留りて生(いき)ながら水葬(すゐそう)となりたる者尠なからず愛知県(あいちけん)警察 部よりは直(たゝち)に三四艘の小舟(こふね)を陸送して救助に尽力(じんりよく)したれども多 数の救助には間(ま)に合(あ)はず更に十 数艘(すうそう)を増して救助に務(つと)め尚ほ当 時第三師団長 長谷川中将(はせがはちうぜう)には工兵の実地 演習実視(江んしうじつし)の為め同地方 へ出張中なりしが此報(このほう)に接するや直に工兵隊(こうへいたい)に備へある船舶五 隻を出して救助(きうじよ)に力を盡したり、海東西部は前にもその大略を 記したるが如く蟹江(かにえ)、津島地方は其 被害(ひがい)実に大なりし現に庄内(せうない) 川(かは)決潰の当時蟹江より出張の暇(いとま)なくして遠き熱田(あつた)より出張せし 位(くらい)なり、尚ほ愛知県下(あいちけんか)の一色及大蟷螂は庄内川(せうないかは)と新川との間(あひだ)に 在る三角形の場所(ばしよ)に介在する新田(しんでん)なるが両村戸数合せて一千百 六十一 戸(こ)は庄名j川 右岸決潰(うがんけつくわい)の為め悉く浸水(しんすゐ)し僅かに身を以て 免(まぬが)れたるもの六千二百十二人は新川(しんかは)堤上五町餘の間に集合し仮(かり) 小屋(こや)さへ造るべき材料(ざいれう)なく終夜 露宿(ろしうく)せるもの多し又 永徳(えいとく)、福留 両新田は愛知郡(あいちぐん)にある俗に宮新田と称(しやう)する処なるが九日破堤の 為(た)め両新田(れうしんでん)七十五戸は悉皆浸水し家財(かざい)一も現存するものなく其(その) 惨状(さんじやう)実に甚しと言ふ    ●岐阜県の出水 岐阜県は全国洪水中(ぜんこくこうずゐちう)最も悲惨を極めたり今先つ其筋(そのすぢ)に達したる 詳報より掲(かゝ)くへし 県庁よりの詳報(しやうほう)に言く 今回の水害(しゐがい)を来したる起因(きゐん)は去三十日の大雨(だいう)以来七月に入り 梅雨は去(さ)りたるも天候は引続き一雲一 雨(う)十九日午後五時三十分 に至り又々(また〳〵)降雨を来し陰晴定(いんせいさだま)らざりしが翌二十日 午後(ごご)二時より 【左頁図面佐屋川木曽川より上】 岐阜三重愛知三縣下水害地畧圖 (該図は愛知県佐屋駅真野香村君之寄贈せられしもの也) 東西南北 岐阜縣海西郡 此輪中岐阜縣第一被害地惨極る処 破壊七百間 木曽川  本流 此輪中は五月以来一面に雨水滞留す 愛知県海西郡 此辺堤防甚だ危険なりし 此辺堤防危険なれ共防禦せり 揖斐川 三重縣三重郡 揖斐川 三重縣桑名郡 破堤三百間 此みよ再三破堤為めに被害多し 旧増山氏居城 長島 此島一円火害地三重縣第一の被害地 【佐屋川木曽川より下】 海東郡 中島郡 ツシマ天 向島 津島町 名古屋上街道 勝幡村 木田村 西春日郡 甚目村 旧東海道   佐屋駅 真野香村君居宅 佐屋川 大字日光 破堤 大字中一色 名古屋下街道 旧東海道也 砂子 大治村 カマスカ村 庄内川 破堤 鉄道線 ステーション 蟹江帖 破堤 大字ナンバ 破堤 名古屋道 木曽川大鉄橋 木曽川 ヤトミステーション 前ヶ須駅 東海道 海西郡 海岸多数の破壊あり 海岸 伊勢湾 日光川 西福田 蟹江川 福田 庄内川 下一色   破堤 愛知郡 凡例 郡下界 鉄道 鉄橋 木橋 縣道 知名町駅村 破堤ミヨ  印は浸水少く浅き処 水害多き処 同少なき処    【上段】 六時に至(いた)るの間 非常(ひじやう)の大雨にして此(この)四 時間(じかん)の雨量は百二十四粍 七、我曲尺(わがきよくしやく)四寸一分二厘、一 坪(つぼ)平方に附き二 石(こく)八升三合を降下 し尚ほ連続(れんぞく)し二十一日午前五時卅 分雨僅(ぶんあめわづか)に歇(や)むも天候再び雨意 を催せしが同日(どうじつ)も大雨、雨量(うりやう)は百三十二粍四、曲尺四寸三分六 厘一坪平方に附(つ)き二石四斗二升二 合(がふ)の多量を降下(かうか)し為に木曽、 揖斐、長良(ながら)の三大川は勿論其の他各川流共(たかくせんりゅうとも)一時に横流漲溢して 涯際を辨(べん)ぜず各所の堤防或(ていばうある)ひは平越と為(な)りて田野に氾濫(はんらん)し或ひ は決潰して比屋漂没(ひをくへうぼつ)の惨状を極む即(すな)はち木曽川は中島(なかじま)郡大浦村 に於て長良川(ながらがは)は各務郡芥見村、厚見郡(あつみごほり)は日野村、菅生村、方縣郡 長良村、寺田(てらだ)村、河渡村、本巣郡 穂積村(ほづみむら)の各所に於(おい)て揖斐川は 安八郡、落合村、今福村(いまふくむら)今尾町の各所に於て各々(おの〳〵)堤防破壊し 田圃は一 円(えん)に入水せり其(そ)の他支川 用水路等(ようすゐろとう)の堤防破壊等に至りて は枚挙に遑(いとま)あらず今其の浸水せし重(おも)なる部分を掲(かゝ)ぐれば厚見、 各務、方縣、羽栗(はぐり)、中島、海西、下石津(しもいしづ)、多芸、不破、安八、大野(おほの)、本 巣等の各郡町村(かくぐんちやうそん)に亘り孰も田園は濛々 渺万数里(べうまんすうり)に渉り一面湖海 の如く農作物は深(ふか)く水底に没(ぼつ)し又入水家屋は当に濁水(だくすゐ)の床上に 達するのみならず過半(くわはん)は軒擔を没し実に危険(きけん)を極めたるも県下(けんか) 各輪中の人民(じんみん)は連年水害に慣(な)れ居(ゐ)たるを以て其被害(そのひがい)の程度に比 すれば死傷 少(すくな)きは不幸中の幸(かう)と謂ふべきか然(しか)れども纔に其危難 を免れたる者(もの)は孰も切れ残(のこ)りたる堤防に縋(すが)り辛くして生命を全 くしたる有様(ありさま)にて身外 素(もと)より一物なく一粒の糲米(もつまい)、一滴の飲水 すら求むるに途(みち)なく老幼 堤上(ていじやう)に彷徨して飢渇(きかつ)に迫るの悲況に沈 淪せり因て先(ま)づ各所に於て焚出(たきだし)を為さしめ救助(きうじよ)方百方手配せる も浸水未だ減退(げんたい)の場合に至らず加之(しかのみならず)交通不便なるがため小屋 掛等の準備意(じゆんびい)の如く行届かざるを以(もつ)て罹災の窮民(きうみん)悉く未だ安全 に雨露を凌(しの)ぎ就眠(しうみん)するを得ず若(も)し夫(そ)れ此上各川水量相増せば 惨害果して如何(いかん)又県下水場に属(ぞく)せる部分の道路は大概(たいがい)堤塘上な 【下段】 なるを以て為(ため)に概ね交通を杜絶(とぜつ)し実況詳細取調難き村落多し其今 日までに知(し)り得(ゐ)たる被害(ひがい)の概況を挙(あ)ぐれば堤防 决壊(けつくわい)の甚しきも の百四十三 箇所(かしよ)、其他堤防の缺所 垂(た)れ所等(しよとう)にして其危険切れ所 に譲(ゆづ)らざるもの及 道路(だうろ)、橋梁等 夥多(くわた)にして未(いま)だ詳細取調行届か ず又幾万町歩に植附(うゑつけ)ある稲苗 其他(そのた)作物は長く水中(すゐちう)に浸潤せるを 以て悉く腐敗(ふはい)し到底回復の見込(みこみ)なし被害町村数は四百九十五箇 町村にして其人口(そのじんかう)廿二万四千五百九十一人、入 水(すい)戸数凡そ三万 千三百四十三戸、流失(りうしつ)五百八十八戸、全潰(ぜんくわい)八十四戸、半潰百二 十五戸、死亡者(しばうしや)三十三人、行衛不明十人、負傷者(ふしやうしや)十人にして焚 出救助人員は其概数(そのがいすう)は十七万五百七十人餘の多きに達(たつ)し又飛騨 国は電信不通(でんしんふつう)にして其 消息(せうそく)を知るに由なかりしが二十三日に至 り初て電信通(でんしんつう)せり該地方も二十日に暴風雨(ばうふうゝ)あり増田川宮川大水 高山町に於(おい)ては城山の東面(とうめん)崩壊し人家 全潰(ぜんくわい)十六戸半潰四戸、即 死七人 負傷者(ふしやうしや)十二人、船津町古川町に於(おい)ては或は人家(じんか)浸水或は 橋梁の流失(りうしつ)、道路の破壊等あれども其他(そのた)は未だ其 詳(つまびらか)なるを知 るべからず郡上郡(ぐんじやうごほり)も亦大雨のため諸川(しよせん)非常の出水にして 其八幡町 近傍(きんばう)に於て浸水 家屋(かをく)五六十戸に下らず其他(そのた)堤防に氾濫 し近傍数村 耕地(かうち)一円入水 浸水(しんすい)家屋深さは軒擔に及(およ)ぶ堤塘の破壊 九百三十五 間(けん)、橋梁流失十三 箇所(かしよ)、浸水家屋 凡(およ)そ八百五十戸を 越ゆ加茂(かもごほり)郡浸水戸数六百十七 戸(こ)、焚出救助(たきだしきうじよ)を受くる者凡そ二千 人其他 道路橋梁(だうろけうりやう)の破壊数箇所、武儀郡(むぎごほり)被害町村三十七、家屋浸 水三千九 戸(こ)、流失(りうしつ)二十戸、土岐郡に於(おい)ては土岐川満水田畑家屋 に浸入せる所(ところ)あり知事も親(した)しく被害地を巡視(じゆんし)せしが今回の災害 は近年稀なる惨状(ざんじやう)にして此盛夏の候(こう)も一度 其境(そのさかひ)に臨めば覚えず 満身膚にに粟(あわ)を生(しやう)じ憂慮措く能はず専(もつぱ)ら吏員を督励し一面 水防(すゐばう)上 警戒を加(くは)へ一面救助に従事(じうじ)せしめたり 【右頁上段】 破壊堤防 岐阜県知事(ぎふけんちじ)より内務省へ達(たつ)したる報に據(よ)れば今回水 害の為め今日迄(こんにちまで)に破壊の箇所分明したる堤防(ていばう)は左の如く尚又破 壊箇所の近辺(きんぺん)は全く通行 遮断(しやだん)の姿なりと (七月二十四日)   長良川 (厚見郡菅生村) 切所百六十間   同   (同 日野村)  同  百 間   同   (方縣郡寺田村) 同 六十五間   同   (同 河渡村)  同 百六十間   金草川 (多芸郡高田村) 同  十間   同   (同 養老村)  同  十間 ◯岐阜県の大野代議士より国民協会幹事(こくみんけふくわいかんじ)薬袋氏へ宛(あ)て左の書状 あり以(もつ)て其の惨状(さんじやう)の一端を推知するに足(た)るべし因て之を掲ぐ 先刻電信を以(もつ)て御報告 申上如(まうしあげしごと)く今回の水害は濃尾両国に亘り口二十八万八千三百九十人、戸数六万九百廿八戸  反別六万七 其區域の廣(ひろ)きこと未だ曾(かつ)て其例無之諸川堤防一も其形(そのかたち)を全ふする ものなく山嶽は平に崩壊し (所謂(いはゆる)山抜け)最早 今日(こんにち)に於ては如何 とも策の施(ほどこ)すべきなく県庁始(けんちやうはじ)め諸官衛は専ら窮民 救助(きうじよ)にのみ従 事致居候 飛騨(ひだ)の被害は餘程酷なる様子(やうす)なれども交通(かうつう)の道相絶へ 今日に至るも未(いま)だ詳細の事(こと)を知(し)るに由なく美濃地(みのち)に於けるも未 だ一面の湖水(こすゐ)の如くならば素(もと)より充分の取調不行届(とりしらべふゆきとゝき)にて今日迄 相分り候 分(ぶん)は別表の通(とほり)に有之候 (但(たゞ)し無論堤防の分(ぶん)のみ道路悪 水路山嶽 崩壊(はうくわい)の分は相分り不申候)間御参考(あいだごさんかう)の為御送附申上候 且又 被害後両(ひがいごりやう)三日間焚出し救助を受(う)けし窮民 毎日(まいにち)凡そ十八万人 に有之候趣 是(これ)を以て其 惨状(さんじやう)と其區域の廣(ひろ)きことを御推被下度候 右の如き景況(けいきやう)なれども岐阜の水害(すゐがい)と云へば常(つね)の如く相成他府県 人士の感動(かんどう)を惹くこと薄く実に遺憾(ゐかん)の至り小生も実地(じつち)を目撃し驚 愕仕候 混雑中(こんざつちう)認し事なれば乱筆(らんぴつ)の儀御宥恕被下度 品川(しながは)子爵へは 別に御報告申上(ごはうこくまうしあげ)たるも老兄より宜(よろ)しく御上申願候敬具   被害箇所       被害間数  二百四十四ヶ所    二万八百二十間  内          内  切所百三十六ヶ所   切所一万四千二十六間 【右頁下段】 缺壊其他百八ヶ所    缺壊其他六千七百九十四間  被害人 千二百三十五町五反七畝廿二歩 又岐阜県中島郡 竹(たけ)ヶ鼻町(はなまち)にて発したる遠藤速太氏の詳報(しやうはう)は左の 如し 今回の洪水被害地中(こうすゐひがいちちう)予の先づ足を投(たう)じたる岐阜県下の被害実況 に就て予の目撃(もくげき)したる所、且(か)つ縣官の物語(ものがた)られたる所等に據れ ば同縣下は電報(でんぱう)にも詳報せるが如く豫想(よそう)に増して被害の地域廣 く全管下二十四 郡中(ぐんちう)、現に小害をも蒙(かうむ)らざるは僅々 恵那(ゑな)、上石津 の二郡に過(す)ぎずして土岐郡(どきごほり)の小害及飛騨三郡と加兒郡(かじごほり)の未詳を 除けば爾餘(じよ)の十七郡は皆(みな)一目 凄然(せいぜん)たる被害地たり而(しか)して其關係 を取調るに厚見、羽栗、中島の各郡(かくぐん)は木曽川、長良川、海西安八の 二郡は木曽川(きそがは)、長良川、揖斐川、加茂、各務の各郡(かくぐん)は木曽川、武儀、 山縣、方縣、木巣、大野の各郡は長良川、池田、不破、多芸、下石津 の各郡は揖斐川の孰(いづ)れも氾濫漲溢(はんらんちよういつ)より其の惨状を来(きた)すに至れり 此等の各郡中、予(よ)は本日(ほんじつ)岐阜を経て被害の多(おほ)き部分に属(ぞく)する羽 栗、中島の二 郡(ぐん)に跨(またが)れる正木輪中、桑原輪中足近輪中等を巡見(じゆんけん) せり今其の状況(じやうけう)を記せんに 堤防決潰 堤防决潰(ていばうけつくわい)の状況を報ずるの前(まへ)に於て先(ま)づ一言の説明 し置くべき事(こと)あり岐阜県下 殊(こと)に美濃国の各郡村(かくぐんそん)には行政區畫以 外に数町村相聯合(すうてうあひれんがふ)して団結せる一區畫あり此區畫(このくゝわく)は彼等町村民 が殆んど年々(ねん〳〵)に多少の被害(ひがい)を免がれざる河川(かせん)の氾濫を防禦せん が為めに成(な)れるものにして則(すなは)ち一環の堤防内に包囲(はうゐ)せらるゝ数 町村を称(しやう)して何々 輪中(わちう)と呼ぶ者 是(これ)なり予の巡見したる正木(まさき)輪中 は十四ヶ村(そん)より団結(だんけつ)せられ左木曽川の大堤防(だいてうばう)に沿て七万 餘(よ)丁歩 の耕地を有(いう)するものなるが今回(こんくわい)の出水に木曽川(きそがは)の水量実に十餘 丈を増加(ぞうか)し去る廿一日 來其(らいそ)の水勢時々 刻々(こく〳〵)に高(たか)まりて正木輪中 【左頁上段】 を保護せる堤防 愈々危険(いよ〳〵きけん)を報じたるに依(よ)り同輪中内の人民(じんみん)は孰 れも晝夜 寝食(しんしよく)を廃して之が决潰防禦(けつくわいぼうぎよ)に勉めしも其(そ)の甲斐無く翌 廿二日午前四時 終(つひ)に大浦村に於て堤防(ていばう)七十 間許(けんばか)り决潰し木曽川 の漲水は波浪(はらう)凄じく注流(ちうりう)したるを以て見る間に正木輪中内の十 四ヶ村は水中(すゐちう)に没せられ就中其(なかんづくその)の决潰口に面(めん)したる家屋は過半 押し流(なが)されて辛くも残(のこ)れるは濁流滔滔たる中(うち)に僅(わづ)かに屋上を現 すに過ぎず其(そ)の他(た)輪中一面は宛然(えんぜん)湖水の観を為し点々(てん〳〵)として島 嶼の散在(さんざい)せるが如く見(み)ゆるものは流失(りうしつ)を免がれたる家屋の上部 と其の周囲(しうい)の叢となり其(そ)の間数十隻の救助船(きうじよせん)は或は警察の旗 章を押建(おした)て或は有志者の記章(きしやう)を立てゝ八方に漕ぎ廻り溺死人の 捜索流亡品の拾揚(ひろいあ)げ等に従事せり本日(ほんじつ)午後に至り水勢(すゐせい)稍々滅却 に傾きしも尚(な)ほ决潰れ口附近は波(なみ)を打(う)って濁水流れ込(こ)み全く引(ひ)き 去るは果(はた)して何(いづ)れの日なるや想像(さうぞう)する能はず 正木輪中 既(すで)に斯(かく)の如く一夜に湖と化(くわ)し了りぬ然(しか)るに荒れ切つた る木曽川の張水(ちやうすい)は尚ほ其の餘勢を鼓(こ)し之れと接近(せつきん)せる逆川の堤 防を衝(つ)いて之れを破(やぶ)り更に進(すゝ)んで桑原輪中の堤防をも破壊した れば同輪中内の数町村亦(すうてうそんま)た瞬時に湖と変(へん)じ予が一 夜(や)の宿舎を求 めたる竹ヶ鼻町の如(ごと)き其の多数部(たすうぶゞん)分は今や尚ほ濁水(だくすゐ)に浸り家屋 は概ね床上 数尺(すうしやく)の水を破り其(そ)の惨状目も当てられず 人の死亡と流失家屋(りうしつかおく) 今朝まで前記二箇輪中内に於ける人の死 亡数 判然(はんぜん)たらず孰れも皆 狼狽(らうばい)の裡(うち)に此の水害を被りしなれば甲 は曰く隣の老人(らうじん)は軒にシガミ付き苦声(くせい)を放て救助を求め居たれ ば多分(たぶん)死亡したらんと乙亦た曰 裏(うら)の娘(むすめ)が屋根に這ひ上りやう の拙かつたれば迚も助命 覚束(おぼつか)無しと故に此等のものゝ言に依り 死亡数を概算(がいさん)せば二箇輪中にても餘程(よほど)の死亡となるべし然る に何ぞ圖(はか)らん其の苦声(くせい)を放(はな)ちし老人が樹の株に取り付き家根に 這(は)ひ上りし小娘が早くも救助船に助(たす)け揚げられ居る等にて死亡 【左頁下段】 数は段々に減じ今日の処にては十名 内外(ないぐわい)に過ぎず(内四五名の 死体は本日 発見(はつけん)す)之に反して流失家屋は初(はじ)め一面の湖にて調 査の行届(ゆきとゞ)かざりしものが追々知れるに従つて其の数を増し来れ り 羽栗中島郡役所の調査(てうさ) 同郡役所が本日午後八時の調査に依れ ば其の管内(くわんない)に於ける被害概数左の如し  被害町村二ヶ町五十六村 流壓死人未詳 流失家屋凡四百五十戸 浸水家  屋凡八千戸 焚出救助人員凡五万人 焚出救助十七ヶ所 道路の破壊と物価(ぶつか)の暴騰 道路の開通(かいつう)縦横自在にして而かも能 く改築(かいちく)の行届けることは岐阜県下の一名物として称揚(せうやう)せらるゝ に今回の水災に其の各方面(かくはうめん)の道路は悉く多少の破壊を受けざる は無く殊(こと)に甚だしきは飛騨より越中に通ずる県道(けんだう)及び里道とす 曩日來、縣官(けんくわん)郡吏は夫れ〳〵に手を分(わか)つて各町村に出張し町村 民を督して之が仮修繕(かりしゅぜん)を急ぎ居り為に岐阜、高山間の如きは辛(から) ふじて腕車(わんしや)を通ずるに至りしも高山、富山間の県道及び里道は 今尚ほ車馬を全通(ぜんつう)せず之が為に従来米鹽其の他重なる日需品(にちじゆひん) の供給(きやうきふ)を越中に仰ぎ居りたる高山町の如きは諸般(しよはん)の物価非常に 暴騰し水害前に在て四円二三十銭なりし玄米(げんまい)四斗入一俵は五円 以上を唱(とな)えて売物無く又一升三銭なりし鹽(しほ)は六銭に、一升十五 六銭なりし石油は二十七八銭に孰れも騰貴(たうき)し此の他の物価皆之 に準(じゆん)じて殆ど前日の倍を呼ぶに至り細民(さいみん)の困難名状すべからる ものあり 吉城郡内の被害 現在(げんざい)の調査に依れば飛騨三郡中、被害(ひがい)の最も 大なりしは吉城郡なるが如し而して予の実見(じつけん)したり処を以てせば 同郡内に在ても殊に損害(そんがい)の多かりしは国中第一の平坦地(へいたんち)と称 せらるゝ宮川 沿岸(えんがん)の左右とす其の左岸たる小鷹利村の如きは山 岳の崩壊(ほうくわい)せるもの三ヶ所あり堤塘の决潰 道路(だうろ)の破壊は措いて言              はずとするも土砂 石礫(せきれき)を注(そゝ)がれて荒地となりたる田畑のみにて 概算 反別(たんべつ)百四十五町歩餘あり他に又全く河原(かはら)となり永遠に荒廃 の地となりし田畑頗る多くして全村(ぜんそん)の耕地面積中、其の十分に 六は全く今回の水災(すいさい)に奪ひ去られたり幸ひにして人畜(じんちく)に損傷な きを得たるも其の資産(しさん)の多に被りたる惨害は决して多からずと 為さず小鷹利村に次(つい)で被害の多かりしは細井村にして之れ亦流 亡地、荒地(くわうち)を合せて百餘丁歩あり家屋の浸水(しんすゐ)、破壊流失も少か らず之に次いでは古川町に於て流亡地、荒地凡そ百丁歩あり尚 ほ作物(さくもつ)のみに止まりしもの六七十丁歩あり此の町にて有(いう) 名(めい)なる梅村御弊枠と称する石提(せきてい)は慶応元年の建築(けんちく)に係り爾来一 回も水の為に損傷(そんしやう)を被らざりし堅牢(けんらう)無比の堤防なりしに今回の 洪水(こうすゐ)に宮川、荒木川の相合する処に於て痛(いた)く其の基礎を破られ 遂に数十間の大破壊(だいはくわい)を生ずるに至れりと以て神通川上流の水勢 如何に猛烈(もうれつ)なりしやを知るに足る 一村 全滅(ぜんめつ)せんとす 吉城郡坂上村 大字(おほあざ)巣の内小字大瀬と称する 処あり現在 戸数(こすう)僅かに二戸あるに過ぎざるも自(おのづ)から一小村を成 し各家所有の田畑(たばた)も少なからず従来富裕の聞江ありしが今回(こんくわい)の 水害に彼等が命にも替江難き田畑八分通りを流亡(りうはう)し他に何等資 産のあるにあらざれば今後(こんご)生活の途全く絶江速に他に移住(ゐじゆう)し以 て更に生業(せいぎやう)を求むるにあらざるよりは坐して死を待つの外無き 境遇(きやうぐう)に陥り居れり 加茂郡太田町の浸水 岐阜県加茂郡太田町は木曽川上流の右岸 岐阜市を距(さ)る約(およそ)七里の高地に在りて中仙道の一駅たり此の町ゟ 稍々 北上(ほくじやう)したる処に於て木曽、飛騨の二川 相合(あひかつ)すれば太田町に 於ける木曽川の幅員(ふくゐん)極めて狭隘なると同時(どうじ)に其の町の在る処は 岐阜市其の他に比して非常(ひじやう)に高く木曽川平水の時に於て之を望 めば市街は断崖絶壁(だんがいぜつへき)の上に在りといふも可なり斯れば古来 如何(いか) 【下段】 なる大洪水と雖も此の天然(てんねん)の堤防なる断崖を越(こ)江て太田の市街 に浸水せしことは無きに今回の洪水にのみ河水 氾溢(はんいつ)して市水の 全部(ぜんぶ)浸水床下に及びたり以て其出水量の如何に多かりしやを知 るに足る 潰家増々多し 出水 擔上(のきうへ)に達し僅かに家の棟を現せる時に於て は流(ながれ)の急ならざるが為めに家屋は依然(いぜん)として其の位置を保(たも)ち居 れるも減水の緩慢(くわんまん)なるより水に浸(ひた)りし部分は刻一石と腐敗(ふはい)して 減水の程度(ていど)、擔上を現はすに至りヤレ嬉(うれ)しやと思ふと同時に崩 潰して水面(すゐめん)に浮く家屋其の数を知らず之が住民(じゆうみん)は唯々途方に暮 れて心も狂せんばかりなり 死体発見数 (七月二十一日) 聞く処に依れば羽栗、中島両郡中 に於て男女(だんじよ)の死体十一箇を発見(はつけん)し尚ほ行衛不明のものありて目 下 捜索中(さうさくちう)なり 安八郡の二ヶ村 安八郡は西濃中に在て被害(ひがい)の大なる一部に属 す予は廿五日の未明(みめい)、高田町より舟(ふね)を浮(うか)べ揖斐、牧田、金草等各 川の堤防(ていばう)决潰口を経(へ)、其の間に於ける流家、潰屋の惨状(ざんじやう)を目撃 しつゝ大垣町に到(いた)る此の日同町は満水(まんすゐ)の当時に比し約三四尺の 減水なりといふも尚ほ市街(しがい)は舟を浮べて自由に航行(かう〳〵)し得られ裏 通りなどの矮屋(わいおく)に住する人民は悉く避難場(ひなんば)に救はれ二階家に住 するものゝみ階上に残りて只管(ひたす)ら減水を待ち居れり此の一市街 中初めより些の浸水をも受けざりしは街頭(がいとう)の城地(じやうち)のみにて郡役 所は此処(こゝ)を以て全町の避難場に宛(あ)てたれば救はれて来れる老若 男女数千人、天守塔(てんしゆたう)の各階に充満して立錐(りつすゐ)の餘地を剰さず是れ 皆な命から〴〵に難(なん)を免(の)かれて来りしものなれば僅(わづ)かに衣服を 纏(まと)へるもあり又裸体のまゝなるもあり中には重病(ぢゆうびやう)に罹りて足 の立たざりしを救(すく)ひ出せしもあり各人共に出水(しゆつすゐ)の初めより数日 数夜、殆んど寝食(しんしよく)する能はずして今日に至り居れば見る人も 【挿絵右上より横書き】 高須馬目村八十戸崩潰村民流材にて生命を全す 下石津郡高須町浸水 下石津郡高須町浸水 方縣郡長良村大水家屋破壊 安八郡塩喰村中島多吉氏家屋 【上段】 〳〵 眼血走(まなこちばし)りて異相ならぬは無し城の周囲(しうい)に於ける空地に焚出 し場の設けあり此処にて鼠色(ねづみいろ)の飯を丸め城内に運(はこ)べば避難者先 を争(あらそ)ふて之を乞ひ食す其の状態迚も人間(にんげん)を以て見るべからず予 が郡役所に就き取調(とりしら)べたる処に依れば全市内の被害概数廿三日 調は左の如し  被害人口二万七百五十五人 堤塘决潰三ヶ所 同决損十ヶ所 住家の潰れ  二百三十二 非住家の潰れ(官衛學校倉庫物置社寺等)九十七戸 焚出救助を受  くる者五千三百十人 又安八郡 全部(ぜんぶ)に於ける被害 概数(がいすう)は左の如し  被害町村三ヶ町九十村 同戸数一万二千八百七十七戸 同人口七万千五百  四十五人    高須輪中を見る 美濃国西部一円の洪水氾濫は実に豫想外(よさうぐわい)の災害にして迚も京地 に於て不充分(ふじゆうぶん)なる電報に依り推測するが如(ごと)きものにあらず廿一 郡中(ぐんちう)の十七郡は全く一大湖海に化(くわ)せりと云うも不可なる無く諸 多の堤防(ていばう)は各処に於て决潰し各郡町村間の通路(つうろ)全く絶江限りあ る舟筏(しうばつ)を浮べて救助事務の不行届を遺憾(ゐかん)とする有様ならば予の 如き若し単独(たんどく)にして災地に向はん乎 到底(たうてい)往かんと欲する所に行 く能はず従(したが)つて災害の実況を目撃(もくげき)するを得ざりしなるべし然る に幸にして内務省 視察員(しさつゐん)斉藤書記官、梅谷属の一行と巡見の針 路を同うし同官等の為めに準備(じゆんび)せられたる腕車、舟筏に便乗(べんじやう)す ることを得たるを以て本日は竹ヶ鼻町より小舟(こぶね)を浮べ桑原輪中 の堤防決潰口より浸水の為め湖海(こかい)と化せる処に出で夫より一直 線に高須輪中に入りたるに予は実に一 大驚愕(だいきやうがく)を喫したり此の高 須輪中と称(しやう)する県下第一等の大輪中にして海西郡の全部(ぜんぶ)と下 石津、安八両郡の各一部より成る二ヶ町五十一ヶ村を包有(ほういう)し其 の周回実に十三里と称(しやう)せるに深さは一丈五尺浅(あさ)さも一丈二三尺 の浸水を被(かうむ)りて一大湖海となり一目 際涯(さいがい)無きが如く見江此の水 【下段】 上を航行(かう〳〵)せる救助船 夥多(あまた)あるが中に急航(きうかう)を要するものは順風に 帆(ほ)を揚(あ)げ居れるも少からざりき若し無意にして此処に船を浮べ んには其の眺望(てうぼう)の美は筆舌(ひつぜつ)に能く写し得る所にあらざるも一度 び沈思(ちんし)して其の丈餘の水中に幾百千の民屋(みんおく)を埋め幾千萬の財物 を漂(たゞよ)はせるを想はゞ悲泣(ひきう)に堪へざるものあり     高須町及び今尾町の惨況 此の二ヶ町は共に戸数(こすう)二千内外の小市街なるが全街の官衛、民 屋、神社仏閣等一として水の屋上(おくじやう)に達せざるはなく中には浮ん で流失(りうあいつ)せんとするを綱にて引留(ひきと)め居れるもあり既に流れて他の 家屋に突入(つきい)れるもあり之れが住民の多くは舟(ふね)に救(すく)はれて高処の 仮小屋に移(うつ)れるも中には其の流(なが)れんとしつゝある屋根上(やねうへ)に竹木 を建て藁蓆(わらむしろ)を掛けたる内に住へるもあり尚ほ甚はだしきは屋根 裏に板を横たへ棟(むね)の両端を切り破りて僅かに空気(くうき)を通ぜる中に 臥し穴(あな)より顔を現はし手を揚げて救助船を呼び焚出(たきた)しの握り飯 を乞ひ求(もと)むるあり予の不文には迚も其の惨状(ざんじやう)を写(うつ)し得ず     避難場の惨景 避難場は多く堤防(ていばう)の上に設けあり有らん限(かぎ)りの竹木藁蓆を採集 し来りイブセキ小屋掛けを為し救助船(きうじよせん)の救ひ見るも来るに従つ て之に収容(しうよう)し居るも場所に依りては掛けたる小屋に容(い)れ切れず 止を得ず露天(ろてん)に而かも濁水に濡れたる草(くさ)の上(うへ)にゴロ〳〵と転 がりて疲労(ひろう)を養へるも少からず之が為め或る一村 避難小屋(ひなんごや)にて は四五歳の小兒(せうじ)既に赤痢類似の病症に罹りて危篤(きとく)に陥(おち)いれるも のあるに至りぬ 此の小屋続(こやつゞ)きに町村役場、警察署の出張所を設け一方には舟を 出して救助に尽力(じんりよく)し一方には米麦の買収に狂奔(きやうほん)し又一方にては 壮丁数(さうていすう)名を雇ひ上が𦥑数台を据へて僅かに玄米(げんまい)の皮を擦(こすつ)た程に 搗き土竈にて之を炊(た)き其鼠色なる飯を椀大(わんだい)に結び一食一人に一 【右頁上段】 箇づゝの割当(わりあて)を以て配輿する等其の混雑(こんざつ)の惨状は言語(げんご)に盡せず 予は往年(わうねん)の震災を知らず又本年の三陸津嘯の被害を目撃(もくげき)せずと 雖ども今回の水災(すゐさい)は死体こそ見へね其の他の惨状(ざんじやう)に至りては未 だ曾て夢想(むさう)にだも及ばざりし処なり左れば罹災民中(りさいみんちう)の古老等は 涙持つ眼を見開(みひら)いて吾れ今年八十餘才の高齢(かうれい)なるも斯る水災に 遭へるは今日が始めてなりと物語(ものがた)れり ◯本巣郡 同廿一日方縣郡河度村 堤防(ていぼう)破壊の為め本巣郡生津村 高屋村、柱本村(はしらもとむら)三ヶ村及び北方町の過半浸水家屋の全潰四戸 其他 未詳(みしやう)同日未明糸貫川筋本巣郡馬場村字西川原堤防 破壊(はくわい)流失 家屋七戸同崩壊二戸全村浸水 軒上(のきうえ)に達(たつ)す同日午前五時五六川筋 牛牧村堤防决潰し同村(どうそん)、十九條村、野富村、祖父江村、稲里村の各 村浸水床上に達す当時(たうじ)流失家一戸 同学校(どうがくかう)一棟同午前長良筋穂積 村 堤防(ていばう)破壊し流失家屋十六戸同糸貫川筋 同郡(どうぐん)只越村堤防破壊為 めに五六輪中小柿村以南 浸水軒(しんすゐのき)を没す 又 昨日本巣其外四郡を巡視(じゆんし) (斉藤書記官)せしに堤防(ていばう)の决潰 家屋(かおく)の流失等は多けれども地面 稍高(やゝたか)きに依り殆ど減水せり縣 廰にては今日 急施会(きうしくわい)を開き仮工事費を議す其 金額(きんがく)十三万餘円な り(七月廿七日岐阜発) 益田郡 同廿一日益田郡 増水(ぞうすゐ)のため益田郡下岩村大字森に於て 床上(ゆかうへ)一寸乃至三尺の浸水家屋六十七戸同中原村三合村に於て家 屋の流失四戸同 半潰(はんつぶれ)二戸同破壊十三戸 浸水(しんすゐ)床上同百戸床下百六 十七戸同川西村荻原村の流失家屋二戸同 破損(はそん)九戸 大野郡 同二十一日午前十一時宮田川 汎濫(はんらん)の為め大野郡宮村家 屋 流失(りうしつ)一戸 方縣郡 本月廿一日長良川 本支流(ほんしりう)及び鳥羽、伊目良、板谷、 其他の諸川(しよせん)出水の為め方縣郡長良村、河渡村、寺田村、則武村、 正木村、曽我屋敷(そがやしき)一日市場村、鷲山村、上土居村(かみどゐむら)、成田幸村、 【右頁下段】 打越村、椿洞村(つばきほらむら)、打立村、木田村、黒野村、栗野村(くりのむら)、三田洞村 各村(かくそん)の堤防破壊し家屋流失二百六十三戸 同崩壊(どうほうくわい)三百七十八戸同 半潰七百九十七戸 同破損(どうはそん)二千百六十八戸浸水 軒上(のきうえ)八百六十戸同 床上二千十二戸同床下六百五戸にして舟(ふね)の破損十一艘 死亡(しぼう)女一 人、負傷(ふしやう)男八人、女一人なり 方縣郡古津村 地内(ちない)長良川堤防一ヶ所決壊し今渡村地内長良川堤 防三ヶ所 切込(きりこ)み小学校一棟人家三十一戸流失し老婆(らうば)一人溺死せ り山縣郡 同廿一日山縣郡神崎村 田原村(たはらむら)に於て家屋崩壊二戸同 半潰四戸破損二 床下(ゆかした)浸水四戸 不破郡 同廿二日午前三時不破郡綾野村 地内杭(ぢうちくひ)瀬川堤防及び同 村中堤防並に静里村字塩田中堤防决潰綾野、輪中(わなか)へ入水流失 家屋五戸 人畜(じんちく)に死傷なし 多芸 下石津の両郡(りやうぐん) 此二郡内は高須輪中に属する部分を除 くの外九分の浸水と称す他と等しく田畑(でんばた)宅地道路橋梁を埋没し て湖海(みづうみ)の観を呈し居れるも其の位置(ゐち)美濃の西南隅にして国境の 山脈下に在れば被害の程度(ていど)は割合に低(ひく)し多芸下石津郡役所の所 在地を高田町と呼ぶ此の一 小市街(せうしがい)の如きは揖斐の堤防(ていばう)决潰れし たる当時、信水量 最高(さいかう)の時に在て一部の民家(みんか)床上を浸されしが 早(はや)くも減水(げんすゐ)して今は殆んど平常に復し居れり斯かれば流家潰家 等も割合(わりあひ)に少く目下郡役所に於て精査中(せいさちう)なり 厚見郡の水害 厚見郡龍之前村地内は境川通りの出水漲溢して 堤内(ていない)に汎濫し浸水家屋五十餘戸あり又た日野村 地内(ちない)長良川通り は本堤の切(き)れ込(こ)みたるため田畑家屋えお侵し避難家屋(ひなんかおく)は二百四十 五戸其被害の数(すう)は去る二十六年の水害(すゐがい)よりも甚だし又た島輪中 菅生村地内(ちない)長良川堤防二ヶ所百餘間破壊し又た茶屋新田村 堤外(ていぐわい) にて家屋一戸 流失(りうしつ)す 羽栗中島 両郡(りやうぐん) 木曽川堤防决潰及び長良川 閘門(かうもん)破壊の為羽栗 【左挿絵真中に】 下石津郡日下丸村    堤防にて焚出     罹災民生命を全す 下石津郡   高須町浸水 高須警察  署舟中にて   事務を扱ふ の七部中島の全部(ぜんぶ)合せて五十三ヶ町村に浸水し高(たか)きは屋上低き も殆ど床上(ゆかうへ)に達せざるなく一大湖の観(くわん)をなせり流失家屋四百 五十死生(しせい)不明者十人田畑の損害 巨大(きよだい)ならん被害者は堤右上に避難 し焚出(たきだ)し米の救助を受け僅かに飢餓(きが)を免れるゝもの二万五千以 上にて其状 悲惨(ひさん)を極め居れり决潰の場所より奔流(ほんりう)の水勢烈しく 容易に減水せず田面(でんめん)を見るに至るは数日(すうじつ)の後にあるべし 二十一日夜大垣輪中の堤防 破壊(はくわい)し民家屋浸水し数万の細民(さいみん) 死に瀕(ひん)せるを以て有志家金森氏は排水(はいすゐ)の急務を認め当事者と議(はか) り昨夜 音澪(おとみを)切割に着手したるに依り追々 減水(げんすゐ)し何れも再生の思 を為せり ◯岐阜県知事の報告本月二十一日附警発第三六六号第一四号報告 後重(お)もなる被害(ひがい)は時々電報(でんぽう)を以て及御報告置候処 這回(こたび)の被害た る木曽揖斐長良の三川を始め其他諸川の堤塘(ていたう)决潰しきを以て 南西濃の二面は渺茫(べうぼう)として恰も海面(かいめん)の如く為めに交通(かうつう)は勿論郵 便電信共 不通(ふつう)にして其詳細は容易(やうゐ)に知るを得ざれども一昨日来 雨霽(あめは)れ減水】するに従ひ僅に各地より報告(ほうこく)に接したる概要(がいえう)左に列 記前回に引続き及御報告候也七月廿四日 岐阜県縣知事 ◯水害概況本月廿一日午後二時後の雨量左の如し  七月二十一日  午後六時  四四、五粍  同       同 十時  二六、八粍  同 二十二日  午前二時  二八、八粍  同       同 六時   七、二粍 長良川筋 本月二十一日午後十時より翌二十二日午前五時に至 る間に於て方縣郡長良村字鵜飼屋堤防 决潰(けつくわい)し浸水五ヶ村家屋流 失人畜 死傷(しゝやう)は目下取調中にして其数未だ詳ならず 衣斐川筋 本月廿一日午後七時二十分安八郡大垣輪中今福村堤 防一ヶ所 决潰(けつくわい)同郡今尾町字地蔵下决潰一ヶ所同中村中須村大明 【下段】 神村北今ヶ淵村の四輪中 全部(ぜんぶ)軒上又は床上(ゆかうへ)に浸水し堤防決壊九 ヶ所 急破(きうは)のヶ所無数同廿二日午後六時五十分 同郡(どうぐん)福東輪中塩喰 村にて堤防(ていばう)破潰一ヶ所同零時十九分下石津郡高須輪中一円入水 何れも浸水軒に達し高須町にて溺死者(できしゝや)三名其他未詳安八郡結輪 中下宿村にて堤防破壊同軍今村輪中今村に於て堤防(ていばう)决潰一ヶ所 禾の森一ヶ所决潰輪中一円 浸水(しんすゐ) 木曽川筋 本月廿二日午前三時中島郡大浦村三ッ屋に於て堤防 决潰し桑原輪中正木輪中 家屋(かおく)の流失人畜の死傷は目下 取調中(とりしらべちう)に して未(いま)だ詳ならざるも正木輪中に於ては死亡(しぼう)十一人救助人員六 千餘に及べり同廿一日加茂郡太田町 堤防(ていばう)决潰二箇所家屋流失三 戸 崩壊(ほうくわい)四戸浸水家屋 無数(むすう) 五六川筋 同廿二日午前十時本巣郡只越村 堤防(ていぼう)破壊 人畜(じんちく)死傷未 詳 津屋川筋 同廿一日下石津郡徳田新田の堤防 破壊(はくわい)多芸輪中一 円(えん) 浸水(しんすゐ) 小津川筋 同廿日午後池田郡東津汲村堤防一ヶ所破潰 橋梁(きやうりやう)一家 屋六戸 流失(りうしつ)崩壊二戸 同廿一日大野郡古橋、実江、呂久、西座倉、下座倉、田ノ上、宮田、 大月、唐栗の各村(かくそん)一円浸水 端(のきば) に達し救助を受くるもの一千餘 人に及べり 杭瀬川筋 同廿一日午後九時三十分不破郡福田村堤防 决潰(けつくわい)静里 輪中一円 入水(にふすゐ) 色目川筋 同廿日 零時(れいじ)不破郡室原堤防破壊 人畜(じんちく)死傷取調中 大搏川筋 同廿二日海西郡勝賀村 堤防(ていばう)百二十間破潰高須輪中へ 入水 死亡(しほう)二人流失家屋其他 未詳(みしやう)   【右頁上段】 薮川筋 同廿二日午後三時四十分本巣郡石神村堤防一箇所 大野郡下磯村及び下方村 堤防(ていばう)决潰各一ヶ所 附近(ふきん)各村入水人畜死 傷流失家屋目下取調中 根尾川筋 同廿二日午後九時本巣郡木知原村 堤防(ていばう)决潰一ヶ所流 失家屋四戸浸水家屋 無数(むすう) 郡上川筋 同廿一日午後三時山縣郡千疋村堤防 决潰(けつくわい)二ヶ所延長 二百十七間 同郡(どうぐん)南春近村字瀬保堤防决崩二ヶ所 延長(えんちやう)九十間同村 字 溝口(みぞぐち)决潰二ヶ所同郡巌美村堤防 破壊(はくわい)二百四十間北春近村决潰 一ヶ所戸田村决潰一ヶ所 戸羽川筋 同廿一日山縣郡 高木村(たかぎむら)堤防决潰三ヶ所大桑村决潰五 ヶ所伊佐美村 决潰(けつくわい)三ヶ所東深瀬村决潰一ヶ所 石田川筋 同廿一日山縣郡東深瀬村 堤防(ていばう)决潰一ヶ所高富村一ヶ 所 伊自良川筋 同廿一日山縣郡掛村堤防破壊五ヶ所平井村三ヶ所 長瀧村(ながたきむら)二ヶ所上頭村二ヶ所洞田村五ヶ所 大森村(おほもりむら)三ヶ所小倉村二 ヶ所 梅原村(うめはらむら)四ヶ所此延長七百廿三間 武儀川筋 同廿一日山形郡植野村護岸 堤防(ていばう)决潰一ヶ所山縣村堤 防 决潰(けつくわい)一ヶ所 山岳崩壊 同二十日方縣郡岩崎村 山岳(さんがく)崩壊一ヶ所 同日 同郡雄総村同上同 同日 厚見郡日野村同上同 同二十一日 本巣郡佐原村山岳 崩壊(ほうくわい)の為め六名 圧死(あつし)せり 同日 山縣郡葛原村メクラ洞 山岳(さんがく)崩壊し葛原川を閉塞(へいそく)し為めに 川水漲溢 家屋(かおく)の流失十戸死亡五名負傷五名家屋の崩壊夥多あり 目下取調中 同日 山縣郡東深瀬村山岳 崩壊(ほうくわい)し為めに東深瀬村の家屋破壊三 戸西深瀬村に一戸 【右頁下段】 飛騨国地方は通行(つうかう)は勿論電信共不通なりしが昨廿日に至り初 めて電信通じ詳細(しやうさい)を知るによしなしと雖も高山町城山の東面缺(とうめんかけ) 落(お)ち島河原町人家半壊四戸 全壊(ぜんくわい)十六戸負傷十二人即死七名死体 皆 発掘(ほつくつ)せり宮村駐在所流失其他道路橋梁堤防家屋の破壊(はくわい)流失等 の取調中 ◯水害地大垣地方の実況(じつきやう) 本年水害を蒙る事 数回(すうくわい)今は大池 沼と変(へん)ぜんとする大垣地方の実況を聞くに元来(ぐわんらい)同地方は地盤低 くして川床(せんよう)却って高き程なれば其水をカブること珍(めづ)らしからず 殊(こと)に長良川其他の二流大垣附近を遶(めぐ)りて木曽川に合する所川口 狭く平日と雖ども満潮(まんてう)の際は木曽川の水 逆流(ぎやくりう)して五里の遠きに 及ぶ程なれば一朝 大雨(たいう)至れば忽ち水溢れて堤防を破壊すること 屡々なり斯く水害の多き地方(ちはう)なれば農家(のうか)にては三年に一作あれ ば可なりとする程にて大垣町を始め附近(ふきん)の家々には平日(へいじつ)水害の 用意(ようゐ)にぬかり無く其家は何れも二階屋又は屋根裏(やねうら)に仮の住家を 設け得べき建方(たてかた)にして軒下に一二艘の小舟(こぶね)を釣し置ざるは無く 井戸も亦た掘抜井戸(ほりぬきゐど)にして噴水(ふんすゐ)する仕掛なるを以て若し洪水に て二階又は家屋裏に住居し小舟にて往来(わうらい)する様になれば此井戸 に節を抜たる青竹(あをたけ)を挿し込み二階又は屋根裏(やねうら)まで噴水を呼工 夫を為しあり又た小さき𦥑と金槌(かなづち)位の杵とを用意しありて是に て米(こめ)を搗(つ)き粥坏を作りて露命(ろめい)を繋ぐ由斯く平生(へいぜい)よりすいがいの用意 あるを以て水の為に死傷者(しゝやうしや)を出すことは稀(まれ)なれども目下一面の 水と為り小舟(こぶね)の往来は秋の木葉(このは)の池に浮ぶが如く或は衝突(しやうとつ)せん かと危(あや)ぶまるゝ程なりと雖も此 地方(ちはう)の住民は平生より舟を漕 ぐ事に巧(たく)みにして種々得意の漕ぎ方抔もありて水を陸(りく)とし舟を 家と為す生活(せいくわつ)には余程慣れ居る様子なり只だ困難(こんなん)なるは食物の 缺亡(けつぼう)と浸水後病気の流行するに在り此度も屡々の洪水(こうずゐ)にて牢屋 の如き狭き二階に住居し僅(わづ)かに生命(せいめい)丈は保ち居るも食物の給与(きふよ)   【左頁挿絵】 下石津郡福岡村 堤防より死体之 浮上りたるを見る 方縣郡岩崎村山崩人家埋没 高須町横井□□ 家屋梁まで浸水 流材を筏となし避難 今尾町警察署  外二十戸余崩潰 【上段】 足らざるため餓死(がし)に瀕(ひん)するものあるにぞ警察署よりは船(ふね)を出(だ)し て家々の実況(じつきやう)を尋ね家々よりは又た船を警察署 郡役所(ぐんやくしよ)役場等に 出して救助(きうじよ)を求むる抔其混雑名状すべからず或は洪水二階にま でも及びて避難(ひなん)の場所に困じ居る者もありとか 岐阜水害視察員の派遣(はけん) 内務省にては今回出水の各地方 夥多(くわた)な るも被害(ひがい)甚だしからざる以上は別に視察員(しさつゐん)を派遣せざるの予定 なりしが岐阜県下の洪水は最(もつと)も甚(はなは)だしく西濃各郡一面湖水の如 くなりしとの報に加(くは)へて同縣知事より視察員派遣の請求(せいきう)ありし を以て文書課長斉藤重高に実況(じつきやう)視察の為め派遣を命(めい)じたり因 て同氏は昨夜 終列車(しうれつしや)にて同地に出発(しゆつはつ)したり 家財悉く流失す 木曽川(きそがは)堤防决潰のため惨状(ざんじやう)を極めたる三重県 桑名郡 長島村(ながしまむら)にては川筋の増水(ぞうすゐ)を見るや豫め家財道具(かざいだうぐ)を取片付 けて高所(かうしよ)に移(うつ)したるが此高所は去(さる)二十六年 出水(しゆつすゐ)の際に浸水せざ りし所(ところ)ならば仮令堤防の决潰(けつくわい)するも大丈夫なりと安心(あんしん)し居たる に今回は前年(ぜんねん)の出水よりも凡そ二尺七八 寸乃至(すんないし)三 尺(じやく)の多きに及 びたれば折角取片付(せつかくとりかたづ)けたる家財 道具(だうぐ)は悉く流失し僅(わづ)かに身を以 て免れたりと云ふ 罹災者一晝夜断食す 岐阜 地方(ちはう)の浸水家屋は二 階建(かいだて)のもの少な く罹災者(りさいしや)は梁上に蟄居(ちつきよ)し或は堤上の仮小屋に起臥(きぐわ)し飲食を断て る者あり之(こ)れに飲料 焚出(たきだし)を配輿せんとするも水を得(う)ることかた く又た米(こめ)を得(う)るも炊(た)くの器(き)なく浸水 当時(たうじ)は何れも何れも一晝夜以上断 食したりと 救助を受くる者二十万人 大野代議士(おほのだいぎし)より国民協会に達(たつ)したる 報告によるに今回(こんくわい)の水害に就き岐阜県下 ( 飛騨(ひだ)を除(のぞ)き)にて溺 れ其他の死者僅(ししやわづか)に九十餘名に過(す)ぎざれども山腹(さんぷく)又は高所にて焚 出救助を受くるもの一 昨々日(さく〳〵じつ)までに十九万 餘人(よにん)にして之に飛騨 を加(くわ)ふれば二十 万人(まんにん)に上るべしと云ふ 【下段】 岐阜県堤防の損害 岐阜県下(ぎふけんか)堤防損害の総数二百四十四ヶ所(しよ)延 長二万八百二十 間(けん)なるか其 内訳(うちわけ)を聞くに切所(きれしよ)百三十六此延長一 万四千二十六 間(けん)、欠壊其他百八 此延長(この江んちやう)六千七百九十四 間(けん)なりと 云ふ 屋根を穿ちて出入す 岐阜県 厚見郡(あつみごほり)馬輪中八ヶ村は浸水(しんすゐ)屋根に 達し住民(ぢうみん)は梁に上り屋根を破(やぶ)りて出入口となし居(を)れるが何(いづ)れも 食料に欠乏(けつばう)して飢渇に迫(せま)り救助を受(う)け居(を)るもの四千六百八十人 あり 鵜飼の名所泥海となる 岐阜 長良川(ながらがは)の沿岸たる長良村 大字(おほあざ)鵜飼 屋にては去(さ)る七月廿日 堤防(ていばう)百五十餘間决潰二十一日には大决 潰となり流失(りうしつ)家屋五十 餘戸(よこ)に及び河水は一 面(めん)に土居正木諸村を 初め近傍に氾濫(はんらん)して一面の泥海(でいかい)と変じ長良村にては雨水(うすい)を以て 漸く飲用(いんよう)に供し居れり 県庁にては廿七日 急施会(きふせくわい)を開き仮 工事費(こうじひ)を議す其 金額(きんがく)十三万円餘 円なり 美濃地方 水害(すゐがい)に付き岐阜 大垣(おほかき)垂井等の地方に出張 視察(しさつ)せるに河 水 暴漲堤防破潰(ばうてうていばうはくわい)出水氾濫平地一面湖の如く郵便線路(いうびんせんろ)完全に逓送 し得るものなく集配(しふはい)も一部分の外出来(ほかでき)ず岐阜垂井間には臨時(りんじ)郵 便を開く事(こと)に手配(てくばり)せるも完全の線路(せんろ)を得るの見込立たず水害(すゐがい)の 状況は昨年(さくねん)より更に大(おほひ)なり 青竹を以て電信柱(でんしんばしら)となす 岐阜地方にては洪水今に滅却せざる を以て電信柱を建つる能はず竹(たけ)を以て仮柱となし辛(から)うじて通信(つしん) をなし居れりと 木曽川の堤防 木曽川は今回(こんくわい)水害の最大なる箇所(かしよ)にして堤防の 破壊(はくわい)せるもの十餘ヶ所に及べるよしなるが同堤防は二十四年水 害後に修築したるものに係り其高さ二丈九尺に及び二分五厘の 勾配(かうばい)を有すを以てる其堤基は数十尺の幅(は)ありと云ふ 【右頁上断】 一丈二尺の水底(すゐてい)に没す 木曽川堤防の决潰(けつくわい)せし為め三重県桑名 郡長嶋輪中は一丈二尺の水底(すゐてい)に没し高木の梢(こず江)のみ水面に現はれ て其 惨状(ざんじやう)一方ならずと又た木曽川は二十二日の午後に至るも減 水せず尚ほ九合の水量(すゐりやう)ありたりと 野口代議士邸の流失(りうしつ) 岐阜縣代議士野口代治氏の邸(てい)は今回の水 害にて流失(りうしつ)したり  岐阜名古屋の雨量(うりやう) 各地降雨の概況は別項(べつかう)の如くなるが尚ほ二 十一日 以来(いらい)岐阜名古屋地方に於ける雨量を聞(き)くに九時間に於て 岐阜は一坪に付二石三斗名古屋は同上一石六斗なりしと云ふ 桑木六百本を伐(き)る 八月二日同地方は朝來(ちやうらい)烈しき雷雨あり各河 川とも多少の水量(すいりやう)を増加せしが夜に入り降雨 歇(や)みし為め危くも大 事に至らざりき然るに吉城郡国府村大字木曽垣内にては既に七 月の大洪水にて田畑(でんばた)其の他に非常(ひじやう)の損害を被り今や途方(とはう)に暮れ 居る処に叉も雷雨(らいう)に河水氾濫の模様(もやう)ありとて全村沸きも返らん 大騒動を為し村民(そんみん)挙て要処の堤上に群集(ぐんしゆ)しつ附近の畑より彼等 が米麦(べいばく)よりも貴しとする桑樹(さうじゆ)の大なるもの六百本を伐(き)り来りて 水防工事に務(つと)めたり其の挙動(きよどう)頗る狼狽に失せるが如しと雖も其 の情 誠(まこと)に憐むべきものなり 大垣の洪水 九月八日朝揖斐川非常に氾濫(はんらん)し再び堤防を决潰し て市中(しちう)に浸水し大垣城の天守台にまでも達し人家(じんか)は屋上或は二 階に及び実に当地にては前代未聞(ぜんだいみもん)の大洪水にて幾万(いくまん)の人民瀕死 の苦を嘗(な)め居るに付当地の有志者(いうしもん)金森吉次郎氏は当局者と謀(はか)り オト澪切割(みをきりわり)をなしたるため十二日以来追々減水し人民始めて再(さい) 生(せい)の思をなせり 岐阜県の窮民(きうみん) 再三の水害にて県下の人民 糊口(こゝう)に窮するもの夥 しく目下焚出米の給与(きふよ)を受け居る人員二十七万千三百五十五名 に及べり其 惨状(ざんじやう)推して知べし 【右頁下段】 岐阜県 再度(さいど)の大洪水 同縣は水害風害の厄難(やくなん)に苦しめられて県 民未だ其 堵(ど)に安(やす)んぜざるに当り又々非常の大洪水に遭遇(さうぐう)せりさ て九月六日は朝來(ちやうらい)の降雨なりしが午後五時三十分頃 雷鳴(らいめい)頻りに 轟渡りて忽ち大雷雨と為り(県内 数箇所(すうかしよ)に落雷したる中にも各 務郡鵜沼村にては落雷(らくらい)の為め家屋一戸 焼失(しやうしつ)して死者二人あり) 殊に翌七日午前二三時頃には猛雨 車軸(しやぢく)を流さん計りに降注(ふりそゝ)ぎた れば木曽、長良(ながら)、揖斐(いび)の三大川を首(はじ)め他の諸川に至る迄一丈 三尺 乃至(ないし)一丈五尺の増水(ぞうすゐ)と為り去る七月の洪水に决崩せし堤 切所、澪止箇所は又々過 半(はん)破壊して各町村に浸水(しんすゐ)して岐阜市 如きも浸水の床上(しやうじやう)二尺に達せしもの已に数百戸あり然るに雨(あめ)は 更に歇(や)まざるのみか同夜より翌八日に掛けて一層の暴雨(ぼうゝ)ありし かは諸川(しよせん)とも漸次増水して揖斐川は一升二合 (堤防に満水(まんすゐ)する を一升と称(しやう)す)木曽川は二丈二尺餘、長良川は一丈五尺餘の大 洪水と為りたり左すれば諸川数百の澪止(みをとめ)箇所も又々三四箇所を除 くの外悉く切入(きれい)り続て揖斐川筋揖斐町及び青柳村の大堤决潰し したるを始め長良木曽其他諸堤防の破壊 枚挙(まいきよ)するに遑(いとま)あらず随て 浸水 区域(くゐき)の如きも益々増大とと為りたるに暴雨(ぼうゝ)は其翌九日に至る も尚ほ歇まざれば諸川の水量(すゐりやう)孰も一升二合乃至一升三合の多き に達して未曾有(みぞう)の大洪水と為り大垣輪中を首(はじ)め各輪中の堤防を 歇潰して益々氾濫(はんらん)を逞ふし到る所浸水の高さ七月の洪水より五 尺も高くして其 屋上(おくじやう)に及べるもの無算(むさん)と云ふべく浸の區域に 至ては飛騨国と恵那郡を除くの外は殆んど全縣下(ぜんけんか)浸水せざる土 地無しと言ふべき程にて縣下の人口(じんこう)九十万餘なるに目下既に焚 出 救助(きうじよ)を受くるもの実に二十七万千三百餘名の多(おほ)きに達して殆 んど縣民(けんみん)三分の一を占むるに至りしより見るも其 惨状(ざんじやう)の一班を 伺(うかゞ)ふに足るべし斯くて雨は漸く十三日午前三時二十五 分 頃(ころ)に至 りて小歇(こやみ)と為りしも其頃より北西の烈風(れつふう)吹荒みて益々雨量を増 【左頁上段】 加したるが為め高須町 (凡そ八百餘戸)の如き人家(じんか)三分の二を流 失して五十餘人の溺死者(できしゝや)を出したりとの急報(きうほう)さへありたれば其 他にも此 烈風(れつふう)の為め一層被害の度を高めたるもの少からざるべ し兎に覚出水以来各郡町村の交通(かうつう)全く杜絶(とぜつ)したる有様なれば家 屋の流失、人畜の死傷(しゝやう)、田畑、堤防、道路、橋梁等の被害は到底減 水の後の非ざれば其 詳細(しやうさい)を知るに由なきも前の水災 風害(ふうがい)に比し て一層 著大(ちよだい)なるべしと云ふ 大垣 (九月十日十二時三十分岐阜保線事務所長発) 午前六時大 垣駅内レールベル上一呎五吋餘尚ほ少し増水(ぞうすゐ)の見込、赤阪川 アイ川にも昨夜まで决水(げんすゐ)しつゝありしが今朝(こんちやう)に至り更に増水 其二 (九月十日午後三時十五分名古屋事務所長発) 大垣待合室浸 水市中二階まで浸(ひた)る駅員 家族(かぞく)二百五十名駅にて救助し居れど救 助米 欠乏(けつばう)岐阜より送る手配中駅へ滞留の活牛(いきうし)四頭あり今日まで は保護せしも最早 秣(まぐさ)なく困難(こんなん)し居る今飼料送る手配中 岐阜県水害 概況(がいきやう) 岐阜県大洪水の模様は電報に依り其概略を報 道したるが今九日発にて其午前迄の状況(じやうけう)を岐阜県警察部の報告(ほうこく) に依りて左に報道(ほうどう)せんに 厚見郡 九月八日長良川通 茶屋新田村(ちやゝしんでんむら)字五十石堤防凡三百間の 垂れ所生じたり 各務郡 九月七日長良川通芥見村 堤防(ていはう)决潰の為め一円入水家屋 百餘戸 一九月八日鵜沼村大安寺川出水橋梁 流失(りうしつ)三ヶ所堤防 破壊(はくわい)三十間  餘 一同日境川通伊飛島村 附近(ふきん)八合に達し古市場及大宮村堤防各一  ヶ所决潰其他 急破(きうは)の箇所多し 不破郡 九月八日午前十時二分山田川通表佐村 堤防(ていばう)决潰三ヶ同 村の幾部と栗原村とに入水せり 【左頁下段】 一同日午後二時二十分杭瀬川决潰赤坂の一部 入水(にふすゐ)又谷水の為め  青野、榎戸、矢道の三ヶ村入水 床下(ゆかした)に達せり 安八郡 九月八日揖斐川通福束村堤防决潰の箇所は字 袴垂(はかまだ)れに して長八十五間、流失家屋(りうしつかおく)五戸、浸水二戸を有す 一同日午前十時今福村にて三十間 急破(きうは)あり杭瀬川通割田村及青  柳村切れ所の為め大垣輪中一円入水すべし 一同日午後三時五十分大垣警察署今 浸水(しんすゐ)す森部輪中危し築捨輪  中 切込(きちこ)みたり 一九月九日午前一時結輪中犀川筋西結村にて二十間决潰死傷者  不明(ふめい) 大野郡 九月九日午前十一時黒野村家屋流失三戸、岐禮村溺死 二名、横屋村堤防 破壊(はくわい) 池田郡 九月七日杭瀬川 支流(しりう)新川通山洞村地内堤防二ヶ所决潰 延長十間餘、浸水(しんすゐ)家屋十七戸、同支流釜ケ谷通同村 地内(ぢない)堤防二 十間 决損(けつそん)、同支流徳谷通同村堤防二ヶ所 延長(えんちやう)十間决壊 一同支流大谷通願成寺村堤防五間决壊 一同支流古川通田畑村堤防十間决壊 一同本流市橋村堤防二ヶ所長三十間决壊 本巣郡 九月九日午前七時二十六分馬場村 住家(じゆうか)崩潰重傷二人 土岐群  九月八日午後十時五十七分土岐川出水九合五勺に達す 尚増水の模様(もやう)  武儀郡 九月八日午後二時四十五文上ノ 駐在所(ちうざいじよ)前にて津保川 一升餘浸水 家屋(かおく)十五戸、冨ノ保村駐在所前にて九合餘浸水家屋 三戸仮橋三仮堤 ◯岐阜県 (十一日午前二時三十分岐阜縣知事発) 羽栗、中島、海 西、下石津、多芸、安八九 分通(ぶとほ)り湖(みづうみ)の如し其の他不破、大野、 池田、本巣、方縣、厚見、山縣、各務の大部分(だいぶゝん)は浸水(しんすゐ)深く東北の 山部も川川溢(かは〴〵あふ)れ損害多し無事なるは飛騨及恵那のみ人畜死傷(じんちくしゝよう)家 屋流失詳かならず蓋(けだ)し進退不如意交通断絶(しんたいふによいかうつうだんぜつ)、人命救助水防の忙 しきに因る浸水家屋は凡六万 (七月水の二倍)大破堤(たいはてい)は六十、小(せう) 破算(はさん)なし雨未(あめいま)だ止まず此上如何に成行(なりゆく)くか今計り難し ◯九月十四日 までに知り得たる概数(がいすう)にして重なる箇所の被害(ひがい) を挙ぐれば安八郡大垣町流失百五十二戸、半潰百六十二戸、破 損百十一戸之を棟数(たうすう)とし更に非住家屋(ひぢうかをく)を得れば破損以上の被害 千四百四十棟、死亡(しばう)五、村落(そんらく)にて流失四百九十二戸崩潰五百三 十六戸、死亡十一、今尾分署部内(いまおぶんしよない)同町外六箇村にて流失三百九 十六戸、死亡四十六、海西郡崩潰三百七十九戸、半潰十戸、破損五 戸、之を棟数(むねすう)とし更に非住かおくを得れば半潰(はんくわい)以上の被害千二十 七棟、死亡五十一、高須町西別院(たかすてうさいべついん)、今尾町裁判所 出張所も流失(りうしつ)す高須警察署は住むべき家なく舟中(しうちう)に在りて事務 を取扱(とりあづか)ふ以上各町村死亡者割合に寡(すく)かりしは暴風(ばうふう)に先ち警察官 警戒を與へ避難(ひなん)の手配其機を失せざりしためなりと信ず尚ほ取 調中     ◯岐阜縣風災の概況 (岐阜縣報告)      岐阜市  死亡男一人、女一人、負傷男三人、女四人、住家全潰二十三、半潰四十五、非  住家全潰十一、半潰七      厚見郡  住家全潰百九、半潰五十八、非住家全潰七十二、半潰五十二     各務郡  住家全潰四十八、半潰六、非住家三十六     方縣郡  住家全潰二十九、非住家全潰四十九     羽栗郡  住家全潰百四十一、半潰八十六、破壊三十八、非住家全潰八十六、半潰三十八 【右頁下段】  破壊七百二十、死亡女一、負傷男三、女一、難破船十五艘     中嶋郡  住家全潰二百四十八、半潰七十一、重傷七十三、軽傷二     海西郡  住家全潰百九十四、半潰十九、非住家全潰三十九、半潰八     下石津郡  住家全潰百九十三、半潰七十五、非住家全潰七十一、半潰二十八、死亡三、負  傷十一     多芸郡  住家全潰二百五十四、半潰八十七、破壊四百十四、非住家全潰百十三、半潰五  十七、 破壊二百六、負傷四     上石津郡  住家全潰百二十七、半潰十五、破壊三、非住家全潰十、破壊三     不破郡  住家全潰百十五、半潰六十二、非住家全潰八十五、半潰五十三、死亡女一人  負傷男一人、軽傷女一人     安八郡  住家全潰六百三十九、半潰四百十、非住家全潰二百七十二、半潰七十七死亡  六、負傷二十三、難破船四艘、人命救助四人     大野郡  住家全潰百四十八、半潰百五十七、非住家全潰百二十二、半潰二百五十二、死  亡六、負傷十二     池田郡   住家全潰七十六、半潰七十、非住家全潰十、半潰四、死亡一人     本巣郡  住家全潰二百九、半潰四十八、非住家全潰四十五、半潰九、負傷四人     席田郡   住家全潰百十三、半 十八、非住家全潰四、半潰六、軽傷女六人     山縣郡   住家全潰八十九、半潰五十八、非住家全潰六十三、半潰三十四、死亡二人、負  傷三人     郡上郡  住家全潰五、半潰二、非住家全潰七、半潰一     武儀郡   住家全潰百七、半潰八十八、非住家全潰十六、半潰二、死亡一負傷一     土岐郡   住家全潰十、半潰十三、非住家全潰十二、半潰八、死亡男一、女一、負傷二 【左頁挿絵】 方縣郡  長良村大水  家屋破壊 高須元下町  三丁目惨状 長谷川喜兵ヱ  家族焚出にて  生命を全す          【上段】      ●丹波福知山の水害 福知山の風水害 福知山町は去る八月三十日の夜より暴風雨 にて翌(よく)三十一日午前二時に至り近傍諸川出水(きんばうしよせんしつすゐ)し土師川の堤防(ていばう)数 箇所决潰せしため聯隊區司令部(れんたいくしれいぶ)、高等小学校及び民家二百餘戸 流失(りうしつ)し死傷百名に及び惨状(さんぜう)を極めたるが此時(このとき)天田郡長柳島誠 氏も行衛(ゆくゑ)知れずとなりし由にて此報(このほう)京都府に達するや広沢保安 課長は食に被害地(ひがいち)に向け出発し続て本部京都府 書記官(しよきくわん)も出張し たり猶ほ墓地までも流れたるか棺桶(くわんをけ)及び屋根家具等の下流に流 れ来るもの多(おほ)かりしと言ふ亦日本赤十字社 京都支部(けうとしぶ)にて此報 に接し救護員(きうごゐん)を派出したるよし 福知山聯隊區書記全家溺死 出水(しゆつすゐ)のため丹波国 福知山聯隊區司(ふくちやまれんたいくし) 令部内(れいぶない)に居住せし書記某及び家族数名(かぞくすうめい)䙁らず死体さへ見当らず と 福知山の再水害(さいすゐがい) 九月十二日午前第二時頃より非常(ひぜう)の豪風雨と なり忽まち福知山字新町三戸を倒(たふ)したりしが人命(じんめい)には別条な けれども水害(すゐがい)を恐れたる人民は続々逃出(ぞく〴〵にげだ)して警察署郡役所へと 避難するもの非常に多かりしが幸に暫時(ざんじ)にして止みたり市街(しがい)の 掃除(そうぢ)は今日迄 人足(にんそく)一千人を採用したるに未だ一ヶ町に終りしの み今度全町を終る迄は少くも数(すう)十 日(にち)を要するならん然(しか)るに早く も一種の熱病(ねつべう)を生じ病者は日一日と増加(ぞうか)するものゝ如し避難処 は字内記と岡の間と舊劇場常盤館(きうげきぜうときはくわん)の流れ跡に築き貧民数(ひんみんすう)百 名(めい)住 居せり切(き)れ処は非常(ひぜう)に工事を急ぎ居れども数十日間にて復舊(ふくきう)す ること六ヶしかるべし(九月十二日福知山発) 福知山の惨況(さんきやう) 京都府下丹波国福知山に於ける水害惨況(すゐがいさんきやう)の詳報(せうほう) を得たれば左に之を掲ぐ 今回の水害は例年其比(れいねんそのひ)を見ず 同地は八月卅日より暴風雨(ばうふうゝ)起り 卅一日に至り福知山町を貫流(くわんりう)する由良川漲溢(ゆらがはちやういつ)し堤防三ヶ所を破 【下段】 壊して同町を浸(ひた)し遂に今回(こんくわい)の如き惨況を呈するに至りたりと元(ぐわん) 来同地(らいどうち)は戸数千四百六人口五千六百五十四ありて生糸(きいと)の集散地 なるが年々出水(ねん〳〵しゆつすい)の度毎に家屋の浸水(しんすゐ)することは珍らしからぬこ となれど従来の例によれば水勢(すゐせい)は常に福知山町(ふくちやまゝち)の下流に於ける 堤防(ていばう)を破壊し逆流し同町に侵入居たるも今回は(卅一日午前 一時)同町 上端(ぜうたん)なる蛇ヶ端の堤防(ていばう)を破壊し次で広小路堤防(ひろこうぢていばう)明庄 寺堤防の二ヶ所を破壊(はくわい)して三ヶ所より同町を侵(をか)したれば水は終 に屋根或は二階を浸すに至りぬ、恁(か)くて増水せしことは年々例(ねん〳〵れい) なきことゝて初(はじめ)の程はいづれも二階ならば安全(あんぜん)なるべしと信じ 居りしが水勢次第(すゐぜいしだい)に増加して階上の水は早深(はやふか)さ二尺に及びしよ り終に屋根(やね)を破壊して屋上に出で辛(か)らうじて一命を完(まつた)うするの 有様なりき 屍体発見及被害家屋 死傷者(しゝやうしや)の数は未詳(みしやう)なるも去九月四日迄 発見(はつけん)せし屍体は百十二亦流失家屋百廿八 全潰(ぜんくわい)百十三半潰三百三 十餘 全町流失(ぜんてうりうしつ)せしは西町、中野町等の士族邸(しぞくてい)及び貧民の部落な り 劇場(げきぜう)の全潰二十四名の死亡(しばう) 松井某なる人愛娘二人あり家(いへ)は劇 場常盤座なれば大丈夫ならんと駈(か)け付(つ)くるを見て娘二人を該座(がいざ) に連れ行き身(み)は帰りて他の家族(かぞく)を救護の際 宏大堅牢(くわうだいけんらう)なる該場も 遂に流潰(りうくわい)し場内に避難(ひなん)せる人々の内二十四名は死亡(しばう)し愛娘二人 も亦其中にありかゝる事と知らば該場(がいぜう)へは連れ行かざりしもの をと涙ながらに物語(ものがた)れり 姉妹相抱いて死す 水災(すゐさい)の前夜 聯隊區司令部詰(れんたいくしれいぶづめ)土佐曹長の娘柳 島群長方へ来り雨風(あめかぜ)の怖ろしき物語り抔なして又明日来(まためうにちきた)るべし とて帰宅(きたく)せしに其夜水災に遭ひ曹長(さうちやう)首め全家族六名悉く死亡す柳 島郡長退水後土佐氏の近傍(きんばう)に至れば前夜来りし姉娘(あねむすめ) (十三位)は 妹(いもと)と互に堅く相抱いて死し居たりと姉妹臨終(しまいりんじう)の情推し測られて 【右頁上段】 憫(あは)れなりと郡長涙を溢(こぼ)して物語れり 父子死(ふしゝ)を争ふ 有馬某一家十三人二 階(かい)に在りし儘流失(まゝりうしつ)す家は家 に当りて二分し今(いま)や十三人の家族は溺死(できし)せんとす長男某は曰く 我等死(われらし)を以て妹等助くべければ父(ちゝ)は宜しく泳(およ)ぎて難を避(さ)けら るべしと実父某肯んぜず老人先(らうじんさ)きに死するは順なり汝先づ去り て生命(せいめい)を全うせよ生命幸に全からば如何(いか)にしても他の子供(こども)を救う 護すべし老父(らうふ)の事 顧(かへり)みるべからずと父子相争ふ内に家は益々下 流に流れアハヤ川筋に出でんとせし時山家(ときやまや)と称する者 舟(ふね)を漕ぎ 来り遂(つひ)に一家十三人を救(すく)へり有馬某後人に告げて言ふ死の前後 を争ひし時を今日(こんにち)より回想(くわいそう)せば夢の如く恐(おそ)ろしき事も悲(かな)しき事 もなかりしと 兄弟(きやうだい)三人の未亡人(みばうじん) 登記所官吏森直紀、収税吏森俊郎、訓導森 準輔の三氏は兄弟なり互に力(ちから)を盡くし家族(かぞく)を保護せしに却て災(さい) 死(し)を遂ぐ災後(さいご)三氏の未亡人は三 棺(くわん)の前に座して泣く其状酸鼻(そのぜうさんび)に 堪へざりき 看護婦(かんごふ)の悲痛 赤痢避病院看護婦山村ちうおよび妹某は柳島群長 に随ひ病院(びよういん)に駆け付け救護(きうご)に尽力し後家に帰れば一 家皆死(かみなし)せり 両女は険を犯して流行病(りうかうびやう)の看護に力を盡くし今又一族相見るべ からざるの災(わざわい)に遭ふ両女天田郡役所に来りて愁傷(しうしょう)して起つ能は ざりしと其他 惨話(ざんわ)多し一々記するに忍びず 退水後(たいすゐご)の光景及 救助(きうじよ) 退水後の光景 実(じつ)に惨憺(さんたん)を極む往来(わうらい)は泥の 深さ尺餘家財は往来に山をなして茫々原野(ばう〳〵げんや)の如し又水、鹽、米等 は完く欠乏(けつばう)したれば郡役所は二石三石と小口(こぐち)に諸所より買入れ 梅干一箇宛にて差当(さしあた)り救助せしも何分 多数(たすう)の事なれば白米の運(うん) 送間(そうま)に合(あ)はず無止(やむなく)玄米と白米混合の握飯(にぎりめし)を與へ居れり 犬猫跡を絶つ 牛馬(ぎうば)の死するもの既に多く犬猫(いぬねこ)又悉く溺死し福 知山町中 其足跡(そのそくせき)を絶ち屍体(したい)の外濠中に浮べるもの少からず而し 【右頁下段】 て臭気又甚し同町に犬を寵愛(ちようあい)せるものあり大勝(たいしよう)と呼ぶ夏は蚊帳(かや) に入れ下女(げじよ)を付して煽(あふ)がしめたる程なりしに此犬も亦水死した るにぞ宛然我子を失へるが如く悲(かなし)み居るもあはれなり 泥中(でいちう)より五千円を出す 去九月 往来(わうらい)の泥を片付けんとする際銀(さいぎん) 貨(くわ)五千円 堀(ほ)り出したれば直に警察署に届け出でたり 全戸寄留(ぜんこきりう) 某の家 浸水(しんすゐ)して軒に及ぶ一家十餘人二 階(かい)に上りしに 水は益深く其家(そのいへ)はランプを付けし儘押(まゝお)し流されたりしが数十町 下に至りて壊倒せず其儘(そのまゝ)止まりたれば某は其無事(そのぶじ)を喜び一家は 当分挙て寄留したり ◯福知山水害  福知山大洪水の惨況(さんきやう)は其大体を掲載せしが今又 同地の遭難者(さうなんしや)芳賀弥吉といへる人の実地 目撃(もくげき)のまゝを写して某 氏に寄せたる信書(しんしよ)を得たれば其全文を掲ぐ以て如何に其惨状の 甚だしかりしかを想察(さうさつ)すべし 去八月三十日午前三時頃より大風雨 打続(うちつゞ)き何れも洪水を掛念(けねん)致 居候処 果(はた)して今三十一日午前二時過に至り土師川(ばぜがは)増水の報に接 し皆々一生懸命 片付方(かたづけかた)に従事致候頃は未だ庭園(てい江ん)など少も異常 なく風雨(ふうゝ)は全く休みてドンヨリとせし空に半輪(はんりん)の月を微かに認 め得申候先以てスバヤク荷物(にもつ)を一括致二階に運び上げ更に戸障 子、襖其他 調度(ちやうど)などは運び上候中愈々 庭園内(ていえんない)にも浸水致来り候畳 を上げたる頃は已に掾(えん)まで増水し兎角(とかく)する間に水は梯子(はしご)の半は 迄 侵入(しんにふ)し中々の勢にて殆ど驚き申候 家内(かない)のものさへ己れの現在 せし家よりは一歩も出る事 不 相叶(あいかなは)見るまに水は已に表及中の二 階を越へ折角(せつかく)片付たるものも水の泡と相成小生等の立(た)て籠(こも)れる 奥二階も愈々あやうく相見(あひみ)へ候折から堤の切れたるにや家の覆(くつ) がへる音すさまじく近傍(きんばう)瓦の落つる音など聞(きこ)へ何とも言へぬ心 地致申候水は益々 相増(あひまし)候間乃ち更に畳をめくり適当(てきたう)の台を設け 衣類調度を出来得候丈始末し蒲団(ふとん)を屋根に敷きて道路(だうろ)とし(滑 【左頁上段】 り易き故なり)雪隠(せつちん)の屋根に雨戸を橋かけ隣(となり)の倉の屋上に水を 避け夜を明かし申候 夜明(よあ)け市街の全景(ぜんけい)を見渡せば実に物すごく 各家とも飯櫃(めしびつ)と土瓶など用意して屋上のすまひに御座候殊に夜 中に起りたる事なれば何れもねまき又は半纏(はんてん)の如きものを着た るまゝなり士族屋敷の方を眺(なが)むれば所謂 桑田(さうでん)変じて一面の海と 相成家など見へ不申(まうさず)処〳〵藪を以て取圍(とりかこ)まれたる藁家の屋頭に 人(ひと)の避(さ)け居るを見るのみ茲に最も甚しきは如斯 藁屋(わらや) (士族屋敷 也)五六人乗りたるまゝ流れ行くと同時に市中(しちう)に於る火を失し たることなり助(たす)け度(たき)とて舟はなし空しく見過ごし申候ヤー誰々か 見へぬ、ヤー誰々は流されたなど屋上 生活(せいくわつ)の流伝、時々家屋の 覆(くつが)へり煙たつ有様を眺め居候時は心持(こゝろもち)餘り宜しからず候ひしが 尚水は愈々相憎し最早小生等の避け居候二階 椽板(江んいた)一寸許の所に て幾分(いくぶん)か減水の様子相見へ先以て安心(あんしん)致候へ共炭もなく水もな く飯は昨夜の残物(ざんぶつ)少々有之幸に玉子の貯蔵(ちよざう)有之先以て玉子を啖(くら) ひ朝飯の代りと致候 近所(きんじよ)鄰の有様殊に家屋流失したる人々より 見るときは小生等は実に幸福者(かうふくもの)と存申候用地係の事務所たりし 根本(ねもと)と申候家も流失致し大なる芝居小屋など何処(いづく)に参り候や踪 跡を失(うしな)ひ以前居りし原井の家など如何相成候哉 其他(そのた)知人の家な ども一向に見当(みあた)らず如何せしや尋ね度も其 方便(はうべん)無之今は銭など 何万円ありとも実に半文の価値(ねうち)だに無之候只今追々減水 最中(さいちう)に 御座候得共減ずれば減ずる程 惨状(さんじやう)は相加へ申候如何にして救済(きうさい) 可致候哉実に同情(どうじやう)のの涙にかきくれ眼鏡(めがね)を雲らし申候本年の洪水 破老人連の話にも生来(せいらい)始めてなりと申居候小生も生来始めにて 岐阜大垣等毎々 災難(さいなん)に懸候因て種々 見聞(けんぶん)も致居候得共决してソ レにも劣(おと)るまじくと存申候 今晩(こんばん)にも相成候はゞ餘程 減水(げんすゐ)か致候 得共 到底(たうてい)往来の手段有之間敷又大抵は浸水致候間多くは起臥(きぐわ)に も困候事と察し居候此 郵便(ゆうびん)も如何にして発送(はつそう)可致哉目下考へ中に 【左頁下段】 御座候 電信(でんしん)も郵便も何もかも駄目に御座候只今人々我 生命(せいめい)とい ふ考へより外可無之何れ又々 詳報(しやうごう)可致候へ共先は不取敢(とりあへず)右相認申 候     八月三十一日福知山大洪水の最中  弥吉 別紙は増水の極、減水(げんすゐ)の始頃相認候ものにて其後 只管(ひたすら)減水を希 望罷在候処追々減水致殆んど半(なか)ば頃(ころ)に相成候処彼地此地に於る 土台 堅牢(けんらう)ならざる家屋潰れ出し気味悪(きみあ)しく感(かん)じ候減水後の惨状 は又一層にて目も当てられぬ始末(しまつ)に御座候水は今三十一日夕方 に於て殆(ほと)ど全く市中の地盤(ぢばん)を現はし申候間 早速(さつそく)実況視察の為 め巡回致候処三陸海嘯後の有様(ありさま)も斯くやと思ふばかり家(いへ)は潰(つぶ)れ 人畜は斃死(へいし)し居り生残者は只 生命(せいめい)を得たる丈にて衣類は勿論(もちろん)食 料もなく又之を求(もと)むる道だに無之アチコチ高(たか)き処に群を為して 涙(なみだ)ながらに互に無事を祝する位にて或は一家悉く流失し行衛(ゆくゑ)の 知れざるものあり半ば生存(せいぞん)し半ば知れざるものあり多くは少許(けうきよ) の風呂敷(ふろしき)を肩にして妻子を携へ近在(きんざい)に逃がるゝもの引きも切ら ず小生は先づ用地係の事務所なる根本(ねもと)と申候家を見舞候処流失 せしとは全く流伝(りうでん)のみにて家屋はどうかこうか存在(そんざい)致居候間恐 る〳〵這入込(はいりこみ)候処最早誰一人も在らず何へか已に逃(のが)れたるもの と相見申候あたりを見廻(みまは)し候へば小生の足下(あしもと)に足一本を突出な がら椽板の破の中に溺死(できし)し居候もの有之其 誰(たれ)なるやを弁じ不申 候得共 多分(たぶん)此の家の家族(かぞく)にはあらで他より流込(ながれこ)みたるものと被察 候小生只一人にて如何とも難致先づ其家(そのや)を辞(じ)して先日迄起居眠 食致居候内記町原井の家を見舞(みまひ)候得ば此辺一体は最も激(はげ)しき方 面に当(あた)れることゝて原井に家は最も早く流失(りうしつ)せしとの事にて只 朝夕(ちやうせき)親しみし庭石のみゴロ〳〵と其跡を守り居候(おりそろ)のみにて家は 何れへ参り候哉分かり不申 家内(かない)のものも( 老夫婦(らうふうふ)と十一歳の小 兒)多分同時に家と共に葬(はうむ)られたるなるべしの説なり午前迄 【右頁上段】 打語(うちかた)らひし人々今は行衛(ゆく江)も知れぬと申す有様陸軍の司令部(しれいぶ)、取 引所、高等小学校尋常小学校其他悉く流失し高木 (久子共に女のみ 三人 家内(かない)なり)の家も何れへ消失(せうしつ)せしや踪跡なし是も一昨夜迄 家族(かぞく)打つどひ八十以上のお婆さんと豆などかぢりながら深更(しんかう)迄 物語など致し久子は不日東京へ出発(しゆはつ) する為め何れも楽しんで用 意致居候ものに御座候是も多分 悉皆(しつかい)溺死せし事と存候明朝は早 々再び心当(こゝろあた)り尋ね遣り幾分(いくぶん)かにても其実を承知致度存居候 原井の跡には三十才許の男子一人 溺死(できし)罷在候へ共未だ片付候運 びに至らず其の儘に相成居候其他 潰屋(つぶれや)等の中にも死者(しゝや)多しとの事 なれども中々以て始末(しまつ)の運びに不到先づ互々の生命(せいめい)を安全にし たる上にて始末可致事と被存候(ぞんぜられそろ) 行衛(ゆくえ)の知れざるもの四百人餘ありと申候 実際(じつさい)の死者は二百人餘 ならんと申候得共是も甚だ粗末(そまつ)なる調へと存候間 確実(かくじつ)とは難申 候 小生等は未だ午前より正当(せいたう)の食物を得ず夕方(ゆうがた)に相成ムスビ飯と 漬物(つけもの)を支給され申候云々 (八月三十一日午後八時) ●丹波水害 実況(じつきやう) 某新聞記者の録(ろく)せる被害地視察実見記を左に 掲く 山城の模様(もやう)は今こゝに贅せず国境の隧道(とんねる)を抜けるや道傍の山な る大木(たいぼく)は幾株となく苦もなげに吹き倒されて漸く前途(ぜんと)に被害の 多きを想はしめたり然れども亀岡(かめおか)に達(たつ)するまでは只道路に多少 砂礫(されき)の露出せると篠村に一ヶ所橋梁の墜落(つゐらく)せしを見し外さして 甚しき被害(ひがい)の模様を示さゞりき焉(いづく)んぞ知らん亀岡に到達(たうたつ)して見 聞すれば左の如き被害あらんとは     南桑田郡各町村被害表      全潰家 半潰家 流失家 床上浸水家 床上同  浸水田畑  千代川村   二  -   一戸   三一戸  五〇戸 二六町歩  大井村    -  二   一一   六〇   六〇  七〇 【右頁下段】  馬路村    二  -    -   三四   一五六 不詳   旭 村    一  -   不詳   不詳   不詳  不詳  千歳村    三  -    -   不詳   不詳  二〇  保津村    二  -    -   三八   一三  七三  篠 村    八  -    三   一三   二〇四 三六  本梅村    -  ー    -   -    三   一  吉川村    一一 -    一   一五   三五  五〇  宮前村    -  -    -   -    -   二〇  西別院村   三  -    三   不詳   不詳  不詳  河原林村   ー  -    -   四〇   九〇  一〇三  亀岡町    二  -    -   六〇   一〇〇 一〇〇  堤防决潰の場所は大堰川筋千代川村部内にて十ヶ所延長約二百0二間大井村にて  一ヶ所三十間、馬路村に二ヶ所二十間、河原林村に一ヶ所六十五間あり其他小流の  决潰は合計五十ヶ所延長約四百十五間なりと云ふ  又流失橋梁は篠村に五、吉川村に一、電柱の倒たるもの篠村に一和船の流失篠村に  五尚ほ道路の崩壊家屋の破損等少なからず 元来甲乙土地の遠隔(江んかく)にして交通(かうつう)の不便なる上は出水のため全く 交通を遮断(しやだん)せられたる地方も少なからざれば全部の模様(もやう)未だ詳 知し難きも概略(がいりやく)は斯の如きものなりと云ふ 亀岡及其 附近(ふきん)の模様 暴風雨の当夜亀岡町の東裏は八月卅日午 後十一時頃より浸水(しんすゐ)し始め爾後漸々増加し翌暁(よくぎやう)方前に於ては大 堰川水 漲溢(ちやういつ)を始め且つ下流堤防决潰の場所(ばしよ)より浸水し来りし かば低地(ていち)は漸次家宅内にも浸水し町裏より堤防の間は一面の万(まん) 水(すゐ)となり宛然(江んぜん)一大湖水の光景(ありさま)を呈したりとそ尚ほ当夜は牛の五 六頭も流れ行くを見たりと云ふものあり又新(またあた)らしき棺の流るゝ をも見たりと幾多の霊魂(れいこん)は宇宙にさまよはむと思へば転た断腸(だんちやう) の種なりかし若し夫れ附近の浸水甚しき処(ところ)は河原林村字勝林島 の全字浸水したるなるべし又篠村(しのむら)の保津下り船乗場(ふなのりば)にありし京 都松吉支店外二棟の家屋は障子(しやうじ)一枚だも残さず流失したりとぞ 死者二人 一人は千代川村字今内の小北馬太郎  (三十五)と称するも の浸水田地に流れ来る材木(ざいもく)を拾はんとて溺死(できし)したるなれば自業 自得とや云はん一人は曽我部村字春日部の鳥目按摩(とりめあんま)山内翁之助 【左頁上段】 (三十二)と云ふ哀(あは)れなるものにして他よりの帰路 風雨(ふうゝ)のために吹き 倒され傍らの石にて肋骨(ろくこつ)より背部へかけ甚しく打撲傷(だぼくしやう)を受け即 死したりと 亀岡町を過ぎて船井郡に入るに八木村町分の惨害(ざんがい)は更らに一層 甚しきを見たり 両側(りやうがは)の屋壁に印する浸水の跡は確(たし)かに六尺以上にあり今は総て 水去り各ともあらゆる家具を乾(かは)かさんと街道に並べ特に平生(へいぜい) 商業を営(いとな)むものなれば商品も亦頗る夥しきより僅に中央(ちうわう)に三尺 許の間隙(かんげき)をを餘す外は悉く乾かす所の物品(ぶつぴん)を以て埋められ床板は 皆剥がれて床下の掃除をなしつゝあり街道の狼藉(らうぜき)たる光景と家 人の頗る繁忙(はんぼう)を極むるの状態(じやうたい)は眼も当られぬ惨況なり この町は大堰川に沿ひて両側に建造(けんざう)せられ八木村字八木と称す る所にして百七十二戸皆 浸水(しんすゐ)の害を被らざるなし但(と)ある家に就 きて当夜の模様(もやう)を聞くに元来同地は出水ある毎に必ず先ず害(がい)を 被る処なれば当家もまた大抵(たいてい)斯くの如くなるべしと凡そ度合を 計り床上に一段高き処を造り家財(かざい)は一切之に乗せ家人(かじん)は皆二階 に上り居りしに暫(しば)らくして下らんとすれば水は既に堆積(たいせき)せし家 財の上にあり如何ともする能はず各家(かくか)とも家具一切を浸水せし めしとぞ而して此水は皆 下流(かりう)より湛(たゝ)へ来れるものにして最初は 少しく上流(じやうりう)の堤防决潰の虞ありしかば人々 必死(ひつし)となり之が防禦 をなせしに向ひ側なる富本村字 北瀬(きたせ)へ三ヶ所 (其間は藪を以て 繋(つな)ぎ堤防は此三ヶ所のみ)此 延長(江んちやう)合計三百四十餘間决潰し濁水 は其切口より富本村へ奔注(ほんちう)したりしかば此処の决潰は免(まぬか)れたり と当時八木方の人民は拍手(はくしゆ)して喜びしを以て富本方の人民(じんみん)は非 常に怒(いか)りたりと斯る場合(ばあひ)の人情さもあるべし されば水の引去(ひきさ)りしは頗る早かりしも割合(わりあひ)に流失せしものなく 家具こそ多少(たせう)は流たる家は一戸も流れず只町はづれの小さき 【左頁下段】 家一戸のみ倒れたり予の見たる時は倒(たふ)れて其儘にして瓦葺(かはらぶき)の屋 根は其儘(そのまゝ)柱、壁などの倒れたる上に被(おほ)ひかゝり居たり恐らく柱 の腐(くさ)れたる家なりしならん 当時最も惨(さん)を極めしは三丹運送馬車會社の同地(どうち)に飼養(しやう)し置きた る馬匹(ばひつ)が溺死したるの一事なり該馬匹小屋には総計(そうけい)十二頭を飼 養し居たるに之を預かりし馬丁(ばてい)の未だ土地の事情(じゝやう)に慣れざりし ためスワ出水と聞くや先自己の家具等を取片付(とりかたづ)け居たる其間に 甚しく水量(みづかさ)を増せしかば盡く厩は出したるも内六頭は遂に水の ために押し流され悲鳴(ひめい)を挙げつゝ溺死したりと云ふ尚其 被害(ひがい)の 模様を詳記(しやうき)すれば   被害田畑合計六十一町二反四畝廿二歩    内 畑地 一町五反歩      田地 五十九町七反四畝廿二歩    田地之内 十七町〇九畝廿六歩  皆無の見込         八町九反一畝二歩   五歩作の見込         卅三町七反三畝廿四歩 八歩作の見込    畑地は総て皆無の見込    浸水家屋   七十二戸    家屋倒潰  三棟 内納屋二 有住屋一    馬匹溺死  六頭    遊船流失  一隻    八木より対岸富本村へ渡る大堰橋八十間流失 尚ほ浸水中は炊事をなす能はざるに付各戸共皆村役場より炊出 して與へしが幸に直に減水(げんすゐ)したるを以て今は窮民(きうみん)二十七戸に施 米しつゝありと而して同地 小学校(せうがくかう)は之がため三日間臨時休業す ることゝなれり 斯くて再び同地を発(はつ)し暫(しば)らくは大堰川の堤上を行きしが堤下の 樹木(じゆもく)は丈餘の上に流れ来りし塵芥(ぢんかい)を止めたるまゝ稍半倒れとな り若くは根こぎにせられ藪(やぶ)の根の洪波に嚙(か)まれたる跡(あと)も見ㇸ濁 水尚ほ赭褐色(しやかつしよく)を呈する光景これが此大惨劇を演出(えんしゆつ)したる魔力か と思へば転(うた)た慄然(りつぜん)たるものありき         【右頁上段】 行くこと暫らく直に吉富村に入る本村(ほんそん)は大小十餘の字を以て成 り八木町を少しく隔(へだゝ)りたる所より園部に続く頗る大水にして沿 岸の各字は皆浸水の害を被り水量(すゐりやう)床上二三尺に及びしが就中(なかんつく)鳥 羽、室川原の両字最も惨害(ざんがい)を極めたり鳥羽は実に大堰川(おほゐかは)と園部 川会合の近傍(きんばう)にして室川原もまた其近くにあり同地(どうち)の被害は未 だ詳知(しやうち)し難きも流失家屋は船井郡 全体(ぜんたい)十九戸の内八を占め倒家 又四にして其多くは此 両字(りやうあざ)にありとされど全体に就て云へば 二字の一部を除(のぞ)く外(ほか)は八木より多少浸水の浅(あさ)かりしにや床上に 造(つく)られたる一段高き処には家財(かざい)を乗せたるまゝの家多かりし然 れども各戸 床板(ゆかいた)を取り除け且つ米、麦、黍、籾及び其他ありとあ らゆる物品(ぶつぴん)を道路に乾(かは)かしつゝある光景は寧ろ八木よりも哀(あは)れ を止めたり 浸水家屋は総て百七十五戸にして一時は炊出(たきだ)しを以て救急(きう〳〵)せし も今は其 施輿(せよ)を受くるものなしとずこゝに哀れを止めしは同村 字弘垣内の松本源之助が母イカ(五十八)にぞある源之助は夫婦二人 の子供及母と五人暮らしなるが出水の当日 危険(きけん)の虞あるに付き 子供二人は他の安全(あんぜん)なる家に預け母妻と共に家財等を取片付(とりかたつ)け 居たるに裏手(うらて)なる大堰川の堤防决潰して家は倒れ夫婦(ふうふ)は僅かに 身を以て免れしも一人の親は押されて即死(そくし)したりと其他 歩行(ほかう)も 覚束(おぼつか)なげなる老翁媼のヨロめきながら乾物(ほしもの)を運べる頑是なき子 女の漬物(つけもの)一片のお菜なくして庭の片隅(かたすみ)なる俵の上に坐し勢ひな げに夕餐(ゆうさん)をなしつゝあるさては若嫁らしき人の濡れたる屏風(びやうぶ)を 恨めし気に運(はこ)び居るなど哀れは中々に書き盡くされじ只一寸可 笑しく感ぜしは吉富村の内八木島の河中(かはなか)にて阿房待ちと称する 方法(はうはふ)に依り漁魚をなせしものありし一事なり人々眼の舞はん ほど忙し気なる中にさりとは名詮自称(せうぜんじゝやう)にあらざるか 午後六時半園部に着、慈賀屋に投(とう)ず食後直ちに近傍(きんぼう)を視察した 【右頁下段】 りしが何分川を渡ること能はざれば想ふ様に調(しら)べられず僅か 園部町を調査(てうさ)せしのみ同町は前記二村に比しては多少(たせう)土地も 高く且つ人々の最も决潰(けつくわい)を懸念して必死となり防禦(ばうきよ)せし園部川 の新堤防幸に决潰を免れたれば只字宮町及本町の幾分(いくぶん)を除く の外は悉く多少の浸水(しんすゐ)ありしも皆床下に止まり床上に及(およ)びしは 新町及若松町の一部のみなりしと従て町役場(てうやくば)の炊出(たきだ)しも一時此 二ヶ所に向(むかつ)てなせしのみ被害は極めて尠少なりし模様(もやう)なり尚ほ 船井全部の被害に 付今日まで判明(はんめい)せしものを挙ぐれば左の如し  床上浸水家屋《割書:有住 五一五|無住一〇》 床下浸水家屋《割書:二七五| ー》  流失家屋《割書:有住一三|無住 -》全潰家屋《割書:一九|ー》半潰《割書:七|ー》破損《割書:二〇|ー》蔵流失一  堤防浸水《割書:箇所一二|間数五〇〇》半潰《割書:一|五〇》全潰《割書:二〇|一〇〇》  此外死人一、死馬六、橋梁流失十ヶ所百八十間、山岳崩壊六ヶ所三十間あり五ヶ  荘村四ッ谷の製糸場も倒れたりと云へど確報に接せず、田畑浸水未詳 九月二日午前四時二十分 園部(そのべ)を発す夜来同宿(やらいどうしく)せし本部書記官、有 吉船井郡長、京都赤十字社支部書記山中秀蔵氏及朝日新聞社若 松翠竹等 同行(どうかう)す 観音峠は霧(きり)に閉(とぢ)られて漸く淡(うす)き光を漏らす月影(つきかげ)に照らされ夜の 内に越へ終り須地(すち)に入りしが此辺(このへん)はさして甚しかりしとも見へ ず低地(ていち)の屋根には二三尺許 浸水(しんすゐ)の跡を止むるものなきにあらず と雖も之れさへも餘(あま)り多からぬ模様(もやう)なり然れども橋梁(けうれう)は大抵流 失し僅(わづ)かに丸木橋を以て人を通ずるもの多く道路また皆洗(みなあら)はれ て砂石の露出暫次(ろしゅつぜんじ)甚しきを加へたり而して本郡中最も困難なり しは天田との郡界谿流(ぐんかいけいりう)に架せる巌洞橋の墜落(つゐらく)したる跡なりき幸 に郡長(ぐんてう)の同行ありしかば氏の尽力(じんりよく)に依り土人の助けを得て無事(ぶじ) 渡るを得たり かくて天田郡に入るに先づ眼(め)に触(ふ)れしは莵原村広谷神社に周囲(しうゐ) 一丈餘もあらんと思はるゝ大木(たいぼく)の苦もなく根こそぎにせられ其他 【左頁上段】 の樹木(じゆもく)も折れ若くは倒(たふ)れたるもの頗る多く家屋(かをく)の家根また剥取(もぎと) られたるもの中々多く道路(だうろ)の陥落、橋梁(けうれう)の流失漸々多きを加へ 十七 間橋(かんばし)の如きは僅かに四間を餘して尽く流失し腕車(わんしや)は漸くに 渡りしも渡川(とせん)に馴れざりる我々は到底渡(たうていわた)るを得ず漸く屈強なる土 人の背(せ)に依りて渡りしに十四 間橋流失(かんばしりうしつ)して行くべからずと云ふ 即ち止むなく小徑(せうけい)を迂廻(うくわい)し徒歩すると十八丁 細見村(ほそみむら)に出づ之よ りは幸に道路(どうろ)に障害なく且つ河辺(かへん)は多少被害の跡ありしも全体 はさして甚しからず安全に行程を貪(むさぼ)り下六人部村長田より江戸(えど) ヶ坂(ざか)を下り雀部村字土師 (はぜといふ)に至り一行は此関門(このかんもん)に先 づ膽を破(やぶ)られたり浸水(しんすゐ)は家として軒以上に達せざりしものなく 汚泥にまぶれたる家具家財(かぐかざい)を半濁水に洗ひては乾(かは)かす状態(ありさま)、老 幼男女 皆泥(みなどろ)を被りて奔り歩く光景(かうけい)、只惨と云ふの外ぞなきサレ ど兵庫縣氷上郡より流れ来れる土師川に架せる土師橋を渡り曽 我村字蛇ヶ鼻に入るに及びて尚ほ多きを見たり土師には倒潰若 しくは流失の家屋を見ざりしもこゝには流(なが)れて僅に破瓦(はぐわら)の一片 を止むるもの尠少(せう〳〵)ならず更らに一 歩(ほ)を進めて福知山町(ふくちやまゝち)に入るに 及んで予の未だ曾(かつ)て見ざる所の悲絶凄絶(ひぜつせいぜつ」)なる惨況は眼前に現出 せり 道路(だうろ)の伝説は随分惨況(ずいぶんさんけう)を報じたりしもよも斯くまでとは思はざ りしに足(あし)一 度(たび)其地を踏むに及んで其案外(そのあんがい)甚しきに驚(おど)ろきたるの みならず此混雑の中、此狼藉(このらうぜき)たる間に入り何処(いづこ)よりてを付如何 にして報道(はうどう)すべきやを思ひ茫然自失之を久ふす然れども既(すで)に其 境に入る非常の勇気(ゆうき)と勉強を以てせば焉んぞ幾多(いくた)の困難を除却(ぢよきやく) し責任を盡す能はざらんやと悟(さと)りては即ち勇気百倍勇往敢進漸 く郡役所に達す時に正午前 書記官等(しよきくわんら)は郡役所に入り翠竹(すゐちく)は後れ予は先づ山口俊一氏を訪(と)ふ 氏の家 亦害(またがい)を被ふり家族皆屋上に上り僅(わず)かに免るゝを得たりと 【左頁下段】 然れども氏は家を顧(かへりみ)ず翠漸く減ずるや日夜公事に奔走(ほんそう)し家に在 らず予の訪(と)ひしときも家族(かぞく)のみなりき此処に状況の一班を聞き 得、尚ほ手近(てぢか)き二三ヶ所を実見(じつけん)し郡役所に至りしに楼上(らうぜう)には書 記官、柳島天田郡長、山口俊一氏其他 郡吏等(ぐんりら)数名あり就て当時 の状況(ぜうけう)を叩き且つは町民奔馳(てうみんほんち)の惨況を望見したり 抑も今回(こんかい)の被害たるや距今三十 年前(ねんぜん)即ち土入の害の年の洪水(こうずゐ)と て相伝ふる大洪水(だいこうずゐ)よりも一層甚しかりし由にて而も多少被害(たせうひがい)の 状況異なるものあり堤防决潰(ていばうけつくわい)の場所は蛇ヶ鼻口五十間、広小路 口二十 間(けん)の二ヶ所にして蛇ヶ鼻は旧城(きうじう)と京口の間に破(やぶ)れ広小路 は福知橋 (旧称永寿橋(きうけうえいじゆはし))の処に潰れたり蛇(じや)ヶ鼻(はな)は六十年前一回决(けつ) 潰(くわい)したれども当時の城主之之を修繕(しうぜん)し中には後人の真似得(まね江)ざるが 如き注意(ちうゐ)を用ひ粘力(ねんりよく)最も強き粘土を入れ頗る堅固(けんご)なるものなり しが今回の洪水は苦もなく之を破りしこそ不思議(ふしぎ)なれ之が原因(げんゐん) に付きては種々説(しゆ〴〵せつ)をなすものあれども先づ其重(そのおも)なる原因は第(だい)一 広小路(ひろこぢ)より対岸庵我村字猪崎に渡る福知橋(ふくちばし)のもと仮橋なりしが 近年交通 頻繁(ひんぱん)となりしを以て大なる本橋となせしこと、第(がい)二曾 我井村字蛇ヶ鼻の堀(ほり)をば築上(つきあ)げて家屋を建造(けんぞう)したること、第 三 米穀取引所(べいこくとりひきじよ)倉庫建築の際堤裏の土砂(どしや)を採取せしこと、第(だい)四上 渡船に香良の別荘(べつそう)を建つるため大なる石垣(いしがき)を築きしこと、第五 福知、土師の二川 合流(がふりう)の衛に当りしことなりと而して第四は福 知川の流注(りうちう)に障害を輿へ第二は堀(ほり)の湛水(たんすい)を妨げたるものにして 此五種の勢力合(せいりよくがつ)してこゝに决潰を来したるのみならず従来(じうらい)の决 潰は何処(いづこ)とも内部にも水の湛(たゝ)へて後なるに今回は頗(すこぶ)る急劇の増 水にて只片面のみより浸水(しんすゐ)せしかば前面に竹藪(たけやぶ)ありて多少障碍 たるにも拘はらず其勢実に凄(すさ)まじくスワ决潰と云ふ間もなく先 づ米穀取引所及 附近(ふきん)の家を流し水勢(すゐぜい)の向ふ処一も支ふるものな く聯隊區司令部(れんたいくしれいぶ)、収税署、町役場、高等小学校をも流(なが)して書類     一切流失し其辺を川となし後ろに突出(とつしゆつ)し且つ一面は全町侵入し たり而して広小路(ひろこうぢ)の决潰は福知橋及び下流(かりう)の粗朶波止場、常照 寺裏下手の近来頗る浅くなり流注(りうちう)を妨げたるに原因(げんゐん)せしものら しく是又頗(これまたすこぶ)る凄まじく堤防上なる堤防町の妓楼瓢亭平岡の二戸 を潰流し殺到(さつたう)して常盤館(ときはかん)と称する劇場(げきぜう)を流し其後なりし家屋(かをく)も また皆之に押し流され且つ全町に侵入したり 郡町柳嶋氏は当夜(たうや)即ち三十一日午前三時 前事(ぜんこと)のたゞならぬを思 ひ走て郡役所(ぐんやくしょ)に出勤し宿直員に警告(けいこく)し尚ほ町内銀行其の他の彼(あ) 方此方(ちこち)に警告せしが当時 白波高(はくはたか)く堤防を越へんとして彼方(かなた)に跳 躍する凄(すさ)まじき光景を見たりと未だ幾くならずして轟然(がうぜん)百 雷(らい)の 落つるが如き音(おと)を聞きしがこれぞ両所(れうしよ)の相次で决潰したるもの にして濁水殺到逃(だくすいさつたうのが)るゝに途なく漸くにして某家(ばうけ)の軒に上り二階 より更らに屋根に出で免ろを得たりとされば决潰(けつかい)は水の堤を越 へし後(の)にありて現(げん)に堤防町(どてまち)の如き堤上(ていじう)の家屋も二尺餘 浸水(しんすゐ)の跡 を印せり 斯の如き最も急激(きうげき)なる浸水(しんすゐ)なることゝ云且つ夜間(やかん)にして而も 各家屋皆(かくかをくみな)二階の軒に迄及びそことなれば家具家財等(かぐかざいとう)は一も之を 拾収するの遑なく少しく後(おく)れたるものは逃路(にげみち)を失ひて皆屋根を 穿(うが)ち漸やく屋上(をくぜう)に逃れし程にして轟然(がうぜん)たる决潰の音に続き叫喚(けうかん) の声四方に上り或は屋上(をくぜう)に乗りて流れ行く惨況(ざんけう)眼前に見ゆると 誰も如何ともする能はず只アレヨ〳〵と叫ぶのみ見殺しにした るも少なからずと而して浸水(しんすゐ)の最も高かりしは三十一日午前十 時頃にして暫(しば)らく湛(たゝ)へたる後は漸次(ぜんじ)引き去り九月一日正午には 最早(もはや)半ばを減じ同夕方には全く去れりされど汚泥(をでい)は盡く残留(ざんりう)し て一切のものを汚し家具家財(かぐかざい)の流失(りうしつ)せしものも頗る多く其行衛 さへ見当(みあた)らぬものま夥多なりされば残留したる物品(ぶつひん)は一度 洗(あら) ふと雖も到底(たうてい)旧に復ること難く畳等(たゝみとう)は大抵再び用をなさゞるべ 【右頁下段】 く仮し用をなすも浸潤(しんじゅん)したる汚泥の到底 脱去(だつきよ)すべきにあらざれ ば寧(むし)ろ之を仕代なる方 得策(とくさく)なるべけれども今は未(いま)だ之を云ふべ き場合にあらず 斯く千五百餘戸の全町(ぜんてう)(住民は平均二組以上五六組程宛 同居(どうきよ)す るもの多く且つ他方(たはう)より入込みしもの多ければ確知(かくち)し難きも非(ひ) 常(ぜう)に多し)一時 水底(すゐてい)に没せしことなれば忽(たちま)ち食物に窮し金銭は あれども買ふ処なく町役場は日々(ひび)八九石を炊出(たきだ)して之に別(わか)ち且 つ附近被害(ふきんひがい)なき地に親族知己あるものは之より送り先づ一時を 凌げども以て十分なる能はず将(は)た浸水米(しんすゐまい)はあれども之を炊(かし)がん にも竈(かまど)なし即はち町役場二ヶ所炊出の場の外 全町(ぜんてう)一の炊烟上ら ず且つ時 恰(あたか)も秋冷に際し夜間着衣薄(やかんちやくいうす)く而も泥に汚れて其儘湿潤 なる床上に眠る一 朝(てう)悪疫を誘発するあらば実に由々敷(ゆゝしき)大事なり こゝ十 日間(かゝん)は尚ほ食物(しよくもつ)に非情の困難あり汚泥(をでい)に潰れたる梅干を 半濁水に洗ひつゝ都人(どじん)が恰も鯛(たい)の刺身(さしみ)を味ふが如くして食ふさ ま思はず涙(なみだ)を催ふさしむるものあり 尚ほ困難(こんなん)なるは人夫の欠乏(けつばう)なり各村に徴発(てうはつ)して有志を募るも未(いま) だ足らず他方(たはう)より入込むものは一日五十銭 以上(いぜう)一円五十銭を貧 り中々雇はるべくもあらずために九月二日に至るも死体(したい)の取片 付け全く終(をは)らず発掘(はつくつ)せしもの凡そ二百なるも尚ほ砂底(すなぞこ)若くは屋 下に埋まれるもの頗る多かるへきに口(そ)を急務(きうむ)と思ひながら手の 届かぬは実(じつ)に惨(さん)の惨(さん)なるものなり 予は今暫(いましば)らく記事(きじ)の進行を他に転じ惨話(さんわ)に付き聞き得たるもの を報道せんとす固より其順序等(じゆんじよとう)は混雑の際之を立つるの遑(いとま)なく 且つ年齢等(ねんれいとう)も詳知せず読者諒せよ 土佐曹長は福知山聯隊區司令部(ふくちやまれんたいくしれいぶ)書記にして米穀取引所付属家屋 に住す蛇ヶ鼻の决水殺到するや先づ流されて夫婦(ふうふ)及一子 皆死(みなし)し 曹長及一 子(し)の死体(したい)は之を発見(はつけん)せしも妻は今日 (三日)に至るで発 【左頁挿絵中に】 丹波福知山洪水被害之図 吉田五兵衛氏 洪水之害に 遇ふの圖 洪水の際長町通の舎屋より出火せる圖 死体発掘之圖 見せず 山口俊一氏の監督(かんとく)にかゝる内外用達會社取扱店(とりあづかひてん)は新らしく且 つ廣大(くわうだい)にして氏が目下 住宅長町(ぢうたくながまち)にあるものに比せば頗る堅牢な り然るに之も流(なが)れて影を止めず同家(どうけ)にありし二人の雇人は死し て久しく死体うを発見(はつけん)せざりしが九月三日正午前に至り漸(やうやく)く一人 を発見し他の一人は未だ発見(はつけん)せず而して氏の幼児(えうじ)は人を付け茲 に送らんとし途中(とちう)より危険に付不 思議(ふしぎ)に助かりしと 桐村義堯氏はもと京都府立療病院の医師(いし)にして猪子院長の如き 最(もつと)も氏を信用せし模様(もやう)なるが客年戦争当時従軍して頗(すこぶる)る功あり 勳六等に叙(ぢよ)せられ瑞宝章及び一時金百円を賜はり赤十字社又特 別員に推薦(すゐせん)し慰労金百円を贈りしが後当地(のちたうち)に帰省し院を設け専 ら患者を治療(ぢれう)し且つ公事に盡す心厚(こゝろあつ)かりしに今回の水害(すゐがい)あるや 家族十一人と入院患者(にふゐんくわんじや)十三人は皆死し只生存(たゞせいぞん)せしは氏の実弟【金に英】 吉氏 (高等小学員)及 其長子(そのてうし)の二人にして当時【金に英】吉氏は次子(じゞ) を妻女(やうじよ)に負はしめ自ら長子を小脇(こわき)にかゝへ尚ほ妻子(さいし)を屋上に引 上げんとせし際 怒濤殺到(だたうさつたう)して妻子をさらはれ自分も流(なが)れんとし て僅かに助(たす)かりしと而して該患者(がいくわんじや)の如き所々に包帯(ほうたい)を施したる まゝ三人五人枕を並(なら)べて死せる状態(さま)、実に眼もあてられぬ状態 なりしと 原井某なる者あり夫(をつと)先づ逃れ長男某(てうなんばう)は母ひさ(五十)を負(を)ひて泳 ぎ居りしに中途(ちうど)にして母は子に告ぐらく若し此儘(このまゝ)に逃れんには 母子共に死なん我(われ)は老年(らうねん)餘年も少なり寧(むし)ろ此処にて死なん汝身(なぢみ) を全(まつた)ふし後にて一片の香(かう)を手向けよと云ひ終(をはつ)て直ちに手を放ち て溺れたりと 姉妹の看護婦(かんごふ)あり昨年 郡費(ぐんひ)を以て養成せしものにして本年(ほんねん)も亦 身を犠牲に供し赤痢避病院(せきりひびようゐん)に看護婦たり姉を山村ユウと云ひ妹(いもと) をヨシ(二十年くらゐ)と云ふ然るに今回の災害(さいがい)にて家にありし両親及ヨ 【下段】 シの愛児(あいじ)六才になれるものは惨死(ざんし)を遂げ家は流れて影(かげ)を止めず 姉妹は九月三日 病院(びようゐん)より帰り此光景に身の置処(おきどころ)なきまで歎き悲 しみ父母等(ふばら)の跡を追はんとまで思ひ迫るを人々に慰(なぐさ)められ郡役 所の一隅に身を置けり 村上丑太郎と云ふ銃砲商(じうはうせう)あり主人丑太郎は折柄(をりから)他行にて妻子は 出水(しゆつゐ)を聞くや一 段高(だんたか)き処の蔵の二 階(かい)に四人の幼児(えうじ)を入れ長女と 共に家財(かざい)を取方付け居る際(さい)濁水殺到家屋に逃れて幸に助(たす)かりし も哀れ四人の子は蔵(くら)と共に流れて惨死(ざんし)を遂げたり 吉田五郎氏は高等小学校長にして曾(かつ)て京都下京區高等小学校の 教員(けういん)たりし人なり当夜の模様(もやう)只ならざるを見るや自宅(じたく)を出て親 族等を警戒(けいかい)せんとせしに未だ達せざる中 濁水侵入(だくすゐしんにふ)の模様あるよ り自己が督する学校(がくかう)を見んとして来りし時 幾多(いくた)の家を流して来 れる怒濤(どたう)に遭ひ一旦 校内(かうない)に入り更に水を潜(くゞ)りて窓より出で逃れ んとする際(さい)の家屋を見付け之に匍上(はひあが)らんとせしに後ろよりも 又一家流れ懸りて背(せ)を衝き氏は殆ど溺(おぼ)れんとして僅に二 家屋(かをく) の間に首(くび)を挟まれ沈まざるを得即ち平生(へいぜい)の勇気を出し双方(さうはう)の家 を掻き除け流れて行く際 渦中(くわちう)に捲き込まれ再び死(し)せんとして漸 く免れ又流(またなが)れ居る中材木に背を打たれしも漸(やうやく)にして藁屋根に取(とり) 付(つき)けりこれぞ前記村上(ぜんきむらかみ)の家にして共に流るゝ中 手近(てぢか)き柿樹に取(とり) 付(つ)き遂に全きを得たりと氏は平生(へいぜい)頗る活気あり然れども予の面 (めん) 会(くわい)せしとき其際(そのさい)に至り生れて以来(いらい)始めて公けに助けて呉れと叫 ぎしと笑へり而して氏は漸(やうやく)く陸に上るや直ちに人を六 里隔(りへだゝ)りた る兵庫縣下栢原に馳せ悲惨(ひざん)の状況(ぜうけう)を京都府に電報したりと今回 の事変(じへん)が他に聞へしは氏が此打電を以て始めとす 浸水の当や如何にしけん長原通の傘屋(かさや)より出火し遂に水上三戸 を焼きしが警官(けいくわん)必死の尽力に因り幸に怪我人なかりしも人々既 に屋上(おくじやう)にありたる際とて近傍の人も逃路泣く叫喚(けうくわん)の声実に凄ま 【右頁上段】 く所謂水火の責苦(せめく)は之れなるべしと後にて近傍(きんぼう)の人に語りき 一婦あり逃れて路傍(ろぼう)の柱に登り右手に上部の栓(せん)を持ち左手柱を 抱き両足(りやうそく)また柱を挟み切に救助を呼ぶ折柄(おりがら)後方より流れ来る家 屋のために首以下を壓(あつ)せられ惨死遂げたり後に之を引放(ひきはな)さん とするも女の一念強く柱を抱きて容易(やうゐ)に離れざりしと 有馬某氏の家は蛇ヶ鼻决潰の当時(たうじ)押し流されて家族十餘人藁屋 根に乗りたるまゝ福知山の後方(こうはう)を廻り由良川に出で一里餘流さ れ人々生きたる心地(こゝち)もせざりしは庵我村字安井に於て福知橋(ふくちばし)の 流(なが)れかゝりたるものにかゝり漁夫(ぎよふ)の助を得不思議の命拾ひた りと 宇内記の浸水するや流失家屋廿餘戸 死人(しにん)また四十餘人あり中に 最も哀(あは)れなりしは母子(おやこ)五人相抱きて家屋に壓せられ眼玉飛び出 し腸出でゝ死したるさま眼もあてられぬ光景(ありさま)なりしと 広小路の决潰するや堤上(ていじやう)なりし瓢亭流れて女主及二人の幼児は 溺死せしが三日 死体(したい)を発見せし際には母の足の辺に二人の幼児 相抱(あひいだき)て死し居たりと 劇場常盤館の流失するや豫て大なる建物(たてもの)なれば危険の虞なしと 思ひ集り来るもの七十餘名、されど濁水(だくすゐ)は無遠慮に之をも流し て潰(つぶ)したればは中なる人々は一時に悲鳴(ひめい)を遂げ後方桑園中の汚泥 に埋もれたるを後日に至り発見(はつけん)したりと 森直紀は園部區裁判所和束出張所詰の書記(しよき)たり二弟あり俊良、 準輔と云ふ準輔(じゆんすけ)は尋常小学校の教師にして俊良(しゆんれう)また米穀取引所 の所員(しよゐん)なりしとかや三人別戸して皆 世帯(しよたい)を持ちしに事体の啻な らざるを見るや兄弟三人皆同胞を気遣(きづか)ひて家を出でたるに途中 蛇ヶ鼻の决潰に出逢(であ)ひ三人とも惨死を遂げ特(とく)に不思議なるは準 輔の死体(したい)自己受持の教場の下にありしとされば三家 同時(どうじ)に寡婦(くわふ) となり家は全きを得たれど悲歎(ひたん)の状眼もあてられぬ光景なり 【右頁下段】 と(已に前に出づ参照すべし) 斯る中にも壮快(さうくわい)なる一話あり聯隊區司令部の浸水するや当直(たうちやく)の 下士鈴木某氏外一名は当夜(たうや)の責任(せきにん)我々にありとて尽く他を去ら しめ二人とも屋上に上り十五年の詔勅を頭に載き棟瓦(むねかはら)に馬乗り してありしが蛇ヶ鼻の决潰して家屋の将に破壊(はくわゐ)せんとするや拍 手して両陛下(りやうへいか)の万歳を三唱して家屋の破壊と共に水中(すゐちう)に抜手を 切て二人とも無事助(ぶじたす)かりしと 三丹運送馬車會社の馬匹(ばひつ)八疋は厩を出すに隙(ひま)あらず盡く溺死せ しが何分 大軀(おほがら)のものにもあり運搬人夫の少なきため三日午後ま で死体をそのまゝになし置きしに多量(たりやう)の濁水を吞みたることゝ て腐敗(ふはい)に傾き皮膚も処々 破(やぶ)れて臭気云はん方なく中々 顔向(かほむけ)もな らぬ光景(くわうけい)なりし 死体未だ片付かざる当時は汚泥(をでい)を蒙りたる死体累々として広小 路近傍 桑園(さうえん)の中にあり被ひたる小袖(こそで)一枚取除くれば四五の死体 ありしが是等は兎に角 片付(かたづ)きしも一里餘も下流なる下皮口村字 天津には夥多(あまた)の家屋漂着し棟の認めらるゝもの五十三あり木材 家具等も亦頗る多き中に臭気(しうき)鼻を衝くものあり又由良川筋の沿(江ん) 岸(がん)には死体の漂着(へうちやく)したるものありと見へて烏(からす)などの頻りに其 辺を飛び廻りて何やらん啄(つい)ばむお見たり ◯福知山の水害(すゐがい) 丹波福知山の土師川堤防崩壊の為め流失家屋 百五十一戸、潰家(つぶれや)二百戸、死者二百三十名、負傷者(ふしやうしや)百餘名に上り 家屋の害(がい)を被らざるものとては一戸も之れ無きの有様(ありさま)なり左れ ば本部書記官は広沢保安課長、清水衛生課長外数名を随hて出 張し官民(くわんみん)力を協せて救助に尽力(じんりよく)し赤十字社京都支部に於ても医 員二名を派して負傷者を治療中(ぢりやうちう)なり又同地に亜(つ)ぎて水害の甚だ 敷は丹波の綾部にして流失家屋数十戸、死者(しゝや)三十二名なり其他 丹波にては園部、亀岡地方共大堰川堤防破壊の為め被害 尠(すくな)から 【左頁上段】 ずといふ丹後は舞鶴(まいづる)に於て流失家屋四十八戸、死者二十五名を 生じ宮津、峯山等の地方(ちはう)も被害尠からずといへば其 復舊(ふくきう)即堤防 道路の修繕(しゆうぜん)に要する費額(ひがく)は数十万円に上るべし 船井郡園部町 にては一昨日午後十時頃に至り園部川 溢水(いつすゐ)し見 る〳〵内に人家(じんか)を浸し又川上より追々橋梁人家 巨材(きよざい)等の流れ来 るものありしかば警鐘をを打鳴(うちなら)し消防夫を集め危険の箇所(かしよ)を保護 し町長初め役場吏員は各所(かきしよ)に奔走し警官と力を併せて夫々防禦(ばうぎよ) に怠(おこた)りなかりしも何分僅々一時間の内に来りし急遽の災害なれ ば如何ともする能はず終に園部大橋及常盤橋千歳橋園栄橋新町 橋の五橋を落し近部落(きんぶらく)に通ずる横田橋黒田橋船板橋等 悉皆(しつかい)落ち 堤塘の决壊 枚挙(まいきよ)するに遑あらず近来稀れなる大洪水にて一時は 老幼(らうえう)を高処に移す抔大混雑を極めたり 船井郡北部の水害 同郡東北部の惨状(ざんじやう)を報ぜんに東北部世木村 五ヶ庄村の両郷(りやうがう)は一面北桑田郡周山奥より弓削谷(ゆがだに)を経て来る河 線と北桑田郡 貫郷(つらがう)より佐々江を来るものと海老阪嶺肱谷山脈よ り起(おこ)り来(きた)るものと三大河線を字四ッ谷及殿田に会(くわい)し殊に急流な る一大河となる所なり八月三十日の夜は晝間(ちうかん)曇天なりしも左し て天候 険悪(けんあく)となるべき模様もなく各村皆 枕(まくら)を高うし寝床に入り たるに午後十一時半の頃に至り南北風(なんぼくふう)の起るや強雨篠をつく如 く降り来り忽ち谷々は溢 水(すゐ)し土砂を流失すること莫大(ばくだい)なる為め村 々 人夫(にんふ)を集(あつ)め男子は総出にて防禦せしが何分水嵩増来りセ木村 にて宇殿田及天岩等先づ浸水 床上(ゆかうへ)に及び五ヶ庄村にて字(あざ)四ッ谷 海老谷佐々江の三 部落(ぶらく)亦浸水床上に及び家屋流失破潰の惨状(ざんじやう)を 呈(てい)するに依り老幼は山林(さんりん)に避けさしめたり右二郷は部落数十ヶ 村ありて一村の内と云へども五渓六谷に跨(また)がり居り互(たがひ)に救はん とするも達(たつ)せず而して山嶺の鳴動(めいどう)甚しきにより麓のものは山崩 れを恐(おそ)れ翌日午前四時に至る迄人々生きたる心地(こゝち)なかりき幸に 【左頁下段】 して鶏鳴(けいめい)の頃に及び風雨漸く止み始て蘇生(そせい)の心地せりと元来同 村は山林の収得(しうとく)を以て生活の資に充て糧米(りやうまい)は皆他方より仰ぎ山 稼を以て生活(せいくわつ)する所なるに如斯大害にて山林に積み置きし木材 板炭は一も跡を止めず流失(りうしつ)し北桑田郡より来る物貨(ぶつくわ)を運送して 稼業(かけう)するものあれども之も海老坂峠道大破損の為め稼を得ず殊 に細民多き場所なるに糧食(りやうしよく)を購入せんとすれども其資なく資を 有するも贖ふの途なく実に福知山(ふくちやま)にも次くべき惨害を受け字 天(てん) 若(じやく)の如きは全村の半以上最早 耕地(かうち)となるべき見込(みこみ)立たずと云 船井郡の水害(すゐがい) 同郡中最も被害(ひがい)の甚だしかりしは東部(とうぶ)にて富本 吉富、八木、北部にて川辺、世木、西部にて上下和知(かみしもわち)の七ヶ村にて 八木全村は家屋(かをく)に浸水すること五尺 乃至(ないし)十尺に及び幸ひに何れも 流失(りうしつ)を免れしかと馬(うま)六頭死し人民は二 階又(かいまた)は屋根に登り漸(やうや)く一 命を免れたり出水の際 押寄(おしよ)せ来りし泥土は目下床上(もくかせう〴〵)に一尺以上 堆積(たいせき)しあり又同地は山陰街道(さんいんかいどう)の一駅なる故当日宿泊の旅客数十 名あり是等は皆夜中(みなやちう)一時頃に発足し山路(さんろ)に分け入り迂回(うくわい)して園 部亀岡に避難(ひなん)せし由次は富本村にて同村西北(どうそんせいほく)の堤塘二百間以 上 破壊(はくわい)し一時大堰川と三俣川の二川より同村字西田に浸水(しんすゐ)し人 家床上三尺を浸(した)し其餘勢南桑田郡馬路村を襲(おそ)ひたり吉富村は園 部川と大堰川(おほゐかは)の出合なる故 是亦人家(これまたじんか)床上五尺以上浸水し同村(どうそん)字 雀部の堤塘百五十間を破壊(はくわい)し下流広垣内神田の二部落に浸水し 家屋(かをく)十三を流し道路(だうろ)の破壊数ヶ所に及び人畜(じんちく)の死傷少なからず 同村は字八木島を除き悉皆浸水(しつかいしんすい)せりと云ふ川辺村は各字共 浸水(しんすゐ) し流失家屋(りうしつかをく)三、人畜の死傷ありし趣きにて堤塘(ていとう)の破壊等吉富村 に譲らず世木村は床上浸水(せうじやうしんすゐ)以上に及び工場倒壊し家屋二戸流失 し人畜死傷(じんちくしせう)は詳かならず其他船の流失(りうしつ)せしもの数十艘 橋梁(けうれう)は悉 皆流失したり上下両和知村は未だ詳細(せうさい)を知るを得ざれど上和知 村の概況(がいけう)を記すれば同村にある舞鶴街道中(まいづるだうちう)字桝谷橋は常に水面 【右頁上段】 より三十六尺の上に架設(かせつ)しあるに同橋に傍にある山林(さんりん)に繋りあ る木片(もくへん)を見るに橋上より十七尺の上にありたれば常水(ぜうすゐ)より増せ しと五十三尺の水量(すゐれう)なりしと同村に於ける流失家屋人畜の死傷(しせう) は未だ知るを得ざるも親(おや)は子(こ)の所在を知らず子は親の所在を知 らず何れも僅(はず)かに身を以て山林に避難(ひなん)したる由下和知村は何れ よりも通路を切断(せつだん)せられたる為め被害の顛末(てんまつ)を知るを得ざるも 家屋流失人畜の死傷(しせう)决して上和知村に譲(ゆづ)らざるべし其他(そのた)の町村 に於ても多少の被害あり右の次第にて同郡(どうぐん)の農作物は皆無或は 半作(はんさく)の虞あり其損害実に非常(ひぜう)にて七十餘歳の老人(らうじん)と雖も曾て見 たることなき惨状(さんぜう)なりと云へり尚ほ富本村に於もて流失家屋(りうしつかをく)あり し由なれど未だ詳細(せうはう)に接せず因に云ふ土木工區(どぼくこうく)の官吏に変災の 夜より晝夜(ちうや)の別無く東西に奔走(ほんそう)し决潰所を巡廻し大に勉励(べんれい)し居 るより何れも其熱心(そのねつしん)に感じ居れりと 本郡内阿部村字船岡に内藤孫左衛門と云ふものあり急激(きうげき)の浸水 に逃げ道(みち)を失ひ家族五人 必死(ひつし)となりて屋根裡(やねうら)の竹に取付き漸く 助かるを得たりと 富本村字要田の小高(こだか)き処に水車場(すゐしやじよ)を営むものありき(姓名不詳) 同村字北ヶ瀬の堤防决潰するや浸水(しんすゐ)忽ち到り亦免るに道(みち)なかり しに豫て養蚕(やうさん)の節天井に大なる窓(まど)を穿ち未だ閉ぢ置かざりしを 見出し漸く此処より屋根(やね)に出でゝ生命を拾ひしと 何鹿郡の水害(すゐがい) 丹波何鹿郡は綾部及ひ近村(きんそん)の出水甚だしく死者(しゝや) 三十二人、流失家屋百二十三戸、潰家(つぶれや)三十戸にて橋梁(けうれう)十八基、 牛馬(ぎうば)八頭流失し全国にて福知山に次ぎての被害なりと 京都府下 丹波国南桑田郡の被害(ひがい)は潰家廿七戸 流失(りうしつ)家屋十六戸 浸水家屋八百八十一戸 田園浸水(でん江んしんすゐ)三百五十六町なり(二日亀岡発) 又丹後国の被害は加佐郡にては伊佐津川(いさづがは)出水凡そ四丈餘 西側堤(にしかわてい) 防(ばう)二箇所 决潰(けつくわい)舞鶴町に氾濫し人家の二 階(かい)に達し家財商品等悉く 【右頁下段】 浸水又は流失せり潰家十五戸、死亡(しばう)十八、其他全郡(そのたぜんぐん)の被害は未 だ詳かならず与謝(よさ)郡にては宮津川暴漲浸水家屋敷十戸、山嶽崩(さんがくほう) 壊(くわい)十箇所、中部にては竹野川(たけのがは)一丈三尺小西川八尺、其他の諸川 概ね一丈以上の増水(ぞうすゐ)にして橋梁流失二十六箇所、浸水田畑(しんすゐでんばた)三十 四箇所五百七十町歩 流失(りうしつ)及び土砂入田地二百箇所三十六町歩山嶽 崩壊百四十箇所凡そ八町二 反歩(たんぶ)、堤防决潰(ていばうけつくわい)百箇所凡そ八千八百 間、道路(どうろ)决潰五箇所五百間、流失家屋四戸、全潰(ぜんくわい)十戸、半潰十 戸、浸水家屋床上四百八十戸、床下(しようした)五百二十戸、死亡男女 各々(おの〳〵) 一人 竹野郡(たけのごうり)にては全潰家屋十五戸、其他の被害取調中(ひがいとりしらべちう)熊野郡に ては各川とも平常(へいぜう)より増水(ぞうすゐ)凡そ六尺乃至一丈、久美浜町(くみはまてう)の如き は全町百八十餘の家屋悉く浸水床上(しんすいしやうじよ)に及ぶ橋梁の流失全郡を通 じて二十四、道路(だうろ)、堤防(ていばう)、山嶽、田畑の决潰崩壊及び荒廃(こうはい)は 甚だ夥多なり    ●神戸荒田町宮本繁蔵家族の遭難     (口絵参看) 神戸 松本芳秀 神戸市(かうべし)の水災(すゐさい)は、実に三十有 餘年來(よねんらい)未だ曾て見さる所にして幾 多の同朋(だうはう)市民が住(す)むべきの家を失ひ、着(き)るべきの衣(い)を奪(うば)はれ、 目前の生活(せいくわつ)に窮(きう)するのみか、夫婦親子(ふうふおやこ)一朝にして永別(江いべつ)をなし、 悲哀(ひあひ)の涙(なみだ)日夕 乾(かわ)くに由なき身(み)の上となれる惨状(さんじやう)は、固(もと)より筆紙(ひつし)() の能く悉(つ)くす所にあらねども、大方(おほかた)の君子(くんし)をして憐憫(れんみん)の念を惹(ひき) 起(おこ)する更に深(ふか)からしめんか為め、湊川 堤防(ていばう)の决所に程近き荒田 町に於ける一の惨事(さんじ)を物語(ものがた)らん 同町一丁目に宮本繁蔵といふ人あり、当年(たうねん)四十四歳の妻某との 間に設(もう)けたる、長男 某(ばう) (十八歳)次男某 (十四歳)三男某 (十一歳) 長女某 (十五歳)次女某 (七歳)三女某 (二歳)の六子を有し、一家 【左頁上段】 八口 恙(つゝが)なく歳月(としつき)を送り来りたるに、八月三十日の夜は彼等(かれら)に取 りて如何(いか)なる不幸(ふこう)の夜なりしぞ、当夜(たうや)主人は所用(しよゝう)ありて楠公社 前の友人許に訪(ほうもん)問し、其儘其所に泊し次男三男及び長女の三人 は亦 近傍(きんほう)の某家に泊(はく)して、家には妻の某と共に三人の子女枕(しじよまくら)を 並(なら)へて寝(ねむり)に就(つ)きしに、十一時とも覚(おぼ)しきころ俄(にわか)に水の顔(かほ)に觸(ふる)る ゝに目醒(めさ)め、倉皇褥(そうこうしどね)を蹴(けつ)て起(お)き母子四 人 戸外(とぐわい)へと急(いそ)ぐに、水は 早や胸(むね)に達するの深さなり、母は末子(ばつし)を抱(いだ)き長兄は小妹を背負(せお) ふて、裏手(うらて)なる燐寸(マツチ)製造所の方に逃(のが)れんとすれとも、水勢強(すいせいつよ)く 足進ます、苦悶(くもん)の際長兄 忽(たちま)ち歩を失(しつ)して深みに陥(おちい)り誤て小妹を 取り落(おと)し、之を救(すく)はんとするとも其 術(じゆつ)無し、此時 偶々(たま〳〵)製造所の 屋上(をくじやう)より竹を出して助けんとするものあるに会し、少女の浮(う)き 上(あが)るを待て取りあへす傍(かたはら)なる材木(ざいもく)の上に引き揚(あ)け置き、自らは 竹に縁(よ)りて屋上に攀(よ)ち上(のぼ)り辛(から)ふじて一命を拾(ひろ)ふを得たれとも、 母は尚 水中(すゐちう)にあり徒(いたづ)らに屋上(をくじやう)を仰(あほ)き見て号泣(がうきう)するのみ、再ひ竹 を出して助けんとすれは、天か命(めい)か咄嗟(とつさ)の際(さい)母の懐(ふところ)に抱(いだ)る赤 子先つ波(なみ)に捲(ま)き去られて其姿を隠(かく)し、続て母自らも手を失(しつ)して 其 往(ゆ)く所を知(し)らすなりぬ、長兄 屋(をく)に在り始終(しじう)を目撃(もくげき)すれども如 何ともする能はす只 切歯恨泣(せつしゆこんきう)するの、隣家(りんか)に泊りし三子の中 次男某 辛(から)ふして製造所の屋上(をくじやう)に救(すく)ひ上られ、他は皆 流失(りうしつ)しぬ、 楠公前に泊(はく)したる主人(しゆじん)繁蔵は、夜中出水(やちうしゆつすゐ)の報を聞くや直ちに 我家に帰(かへ)らんと試(こゝろみ)みたれども、水勢(すゐせい)強く道通(みちつう)せす、夜明くる頃 漸く荒田町に帰着(きちやく)すれは我家は失せて只三子の製造所 屋上(をくじやう)に号(がう) 泣(きう)せるを見るのみ、嗚呼(あゝ)是時彼れか胸中(きやうちう)の苦痛(くつう)果して如何なら 【左頁下段】 ん、実に一 夕(せき)の水は人をして妻に別(わか)れ三子に別れ人生(じんせい)の悲境(ひきやう)に 陥らしめたるなり。 宮本繁蔵の事実に其一 例(れい)にに過ぎす、若し被害區域(ひがいく江き)に就きて審(つまびら)か に調査(てうさ)するあれらんには、之れに劣(おと)らさる惨話(さんわ)の材料(ざいりやう)を得る蓋し 夥多(くわた)なるべし。大方 君子(くんし)幸に是等 罹災民(りさいみん)の為めに同情(だうじやう)の涙を濺(すゝ) き応分(おうぶん)の救助(きうじよ)を與へられんこと、我等か切(せつ)に願(ねが)ふ所なり 【右頁上段】          原本美濃大判 《箱:群書類従》 美本十箱入          全部          六百六十五冊 右は某華族家に於て永世秘蔵品之処今般弊店へ拂下け相成所持 致居候に付御望の方は至急御来談あれ   《割書:東京麻布區永坂町|五十一番地》旭堂書肆 新鈔西清古緘鑑《割書:美製和本 正価金壱圓|全二冊  郵税金八銭》   附古器用考  大槻修二先生撰述 完 此書は西土古代に寶器を模写するものにして乾隆帝の欽定に係り原圖は考博古の 二圖より出で正確に考證に欧陽修董逸黄伯蒔尚功諸家の説を兼ね却て其適当なる諸 家の上に出で餘□あることなし夫れ□□盤尊の古形彼圖も之を知るに苦しむ況や我 邦に於てをや此書の本邦に流伝する僅に二本美術工芸の徒或は之を臨模して伝ふと □転々して其実形を誤り終に其実を伺ふこと能はず方今初めて□板の擧あるも亦大 部にして容易に実業家の手に落ること能はず遺憾も亦甚しからずや故に其便宜を某 り容易に坐右の材料に備ふることを得んとし本書四十二巻三千六百餘種の中其形紋 様の同しき物を除き三百二十九種を選抜して二巻となし以て閲覧の煩を省く此書を 熟覧せば彼土三代の古器を徴するにみならず考古学に絵画に彫刻に刺繍に染色に古 雅の高尚なる好材料を得て美術の極度に幾層の位置を進めんこと断じて疑ひなし殊 に古鑑の紋様たる本邦古代模様の起源たる所にして苟も工芸家の知らざるへからさ る寶鉄たり然れども器各其用あり若し其用を知らずして其器を造らば徒らに世人の 哄笑を受くるのみならず意匠を意匠を凝したる製品も亦世益をなさゞるべし故に新鈔石 刻せんとするに当り此事を如電居士大槻先生に某るせ先生も多年古器の用に就き所説 ありとて特に古器用考を撰述して輿へらる古器用考は乃ち古器用目の解説なり仍て 之を巻尾に附し実用者の便に供す請ふらくは考古学術工芸美術家の諸君陸続贖求亜あ らんことを 発売書《割書:東京市神田 電話|區通新石町 九七〇》東陽堂 【右頁下段】 風俗畫報 征清圖絵 全編 臨時増刊 第一編《割書:廿七年九月|廿五年発行》 第五編《割書:廿八年一月|廿五年発行》 第九編《割書:同 五月|廿五日発行》 第二編《割書:同 十月|廿八日発行》 第六編《割書:同 二月|廿五日発行》 第十編《割書:同 六月|廿五日発行》  第三編《割書:十一月|廿八日発行》 第七編《割書:同 三月|十日発行》    《割書:色クロース金文字入|合本仕立》 第四編《割書:同十二月|廿 日発行》 第八編《割書:同 四月|十五日発行》   《割書:一部金壱圓|郵税金拾八銭二行目》 征清の一擧は帝国の歴史に特筆大書すへき空前の一□事 なり本堂即ち此一大事実を天下後世に伝へ以て国恩の 萬一に酬へんと欲し襄に風俗畫報を臨時増刊として日清 戦争圖絵を発行するや非常なる喝采を博し毎号数萬部に 至れり第五編よりは更に征清圖絵と改題し挿畫記事とも 一層の注意を加へしかは江湖の賞賛望外に達し既刊の分 は数片を重ぬるに至れり今や征清の結果帝国の大勝利に 帰し東洋の天地また妖雲を留めざれば本編もまた従つて 完結を告ぐるに至れり若し夫れ之を初編より読下せば征 清の起因経過脈絡は眼前に髣髴たるへく猶府下有名なる 畫伯の筆に成れる圖畫十数葉を本堂特得の石版に附して 毎号挿入したれば読者は坐らに戦場に立の想ひあるへし   初編より取揃へ御注文に応す 【左頁上段】 【筥迫の絵の上下に横書で】 はこせこ 定価金壱圓廿銭ゟ金八圓迄 餘は御好み次第調整可仕候 【縦書き】 元禄の華舎奢風流を其の儘今の時様に移して、爰に弊堂 が近ごろ新たに按じ出したるはこせこは、この道の名 匠大家の丹精を凝したる品にして、世の常のものとは 異り、形も品も優雅なること言はん方なし、裂地は縮 珍、緞子、其の他くさ〴〵の品ありて、これに精巧の刺 繍を施して花鳥風月の興を寄せたれば、実にや錦の上 に花を添ふとは是れなるべし、中には方寸の明鏡を組 みて、時の間の化粧に事を缺くことなく、焚き籠めたる 加羅の香りは、衣紋のうちより翻れかゝる、これ弊堂の 特に工夫を凝したるところにして、誠に貴婦人令嬢に は応しき優雅の持物なり、世の淑女の君達、この一品 を召したまはゝ、一際優しく麗はしき縹致品韻を揚げ させたまふべしと玉寶堂の主人敬で白す 《割書:東京下谷池ノ端 貴金属美|仲町廿九番地 術袋物商》 玉寶堂       飯塚伊兵衛 《割書:東京神田須 鼈甲珊瑚珠|田町六番地 類小間物》長岡商店 【左頁下段】     美術帯止 身(み)の修飾(たしなみ)に意(こゝろ)を注(そゝ)ぐは婦人美徳(ふじんびとく)の一にし て、人(ひと)の敬愛(けいあい)も自(おの)づと加(くは)はり、誉(ほまれ)も幸(さち)も 光(ひか)る身(み)の又(また)の美飾(かざり)と謂(い)ふべきなり。され ば天(てん)の成(な)せる例質(よきうまれ)にても、その容儀(よそほり)に心(こゝろ) を凝(こら)せば、玉(たま)もいよ〳〵光(ひかり)を増(ま)し、花(はな)も 一入(ひとしほ)の香(かほり)り添(そ)へて、優(いう)にやさしき品格(ひんかく)は 誠(まこと)に愛嬌(あいけう)の源(みなもと)なるべし。弊堂年来美術装(へいだうとしごろびゆつそう) 飾品(しよくひん)に心(こゝろ)を砕(くだ)きて、皆(み)な時機(はやり)に適ひ(かな)たる 品(しな)のみなるが、爰(こゝ)に又(ま)た此(この)たび新案(しんあん)の美(び) 術帯留(じゆつおびどめ)、意匠(いせうを上品(ぜうひん)なる古代(こだい)の模様(もやう)に採(と) りて、紐(ひも)は縹珍(じゆちん)の綾織(あやをり)、金具(かなぐ)は黄金白銀(こがねしろがね) 又(ま)た青貝(あほがひ)の精巧彫牡丹芍薬菊(せいこうほりぼたんしやくやくきく)さくら、く さ〳〵の四(しき)季の名花(めいくわ)に、金剛石真珠(だいやもんどしんじゆ)その 外(ほか)の宝玉(ほうぎよく)を箝(は)め、世(よ)に誉高(ほまれたか)き美術家(びじゆつか)が心(こゝろ) を籠(こ)めし品(しな)なれば、これを召(め)させたまふ 御婦人方(ごふじんがた)は、実(げ)に錦(にしき)の上(うえに)に花(はな)を添(そ)へたる 美(うつ)くしさ、一入優(ひとしほいう)にやさしき容儀(よそほい)を揚(あ)げ させ給(たま)ふべしと爾云(しかいふ)。 定 ●金五円以上 ●金五十円 価 以下餘は御好み次第御調製可仕候    東京下谷池の端仲町廿九番地   《割書:貴金属|美術袋物商》玉宝堂    東京神田須田町六番地  《割書:鼈甲珊瑚珠|類小間物商》長岡商店      (電話三百五十番)                             【右上段】     広告 ●鼈甲櫛笄簪類 ●新型蒔畫物類 ●珊瑚珠簪玉根掛玉類 ●舶来本護謨櫛類 ●《割書:同護謨鼈甲|無地ばらふ》 ●同櫛笄並簪類  鼈甲珊瑚珠問屋 【屋号山に】上 新珊瑚あづたま発売本舗         東京市日本橋區横山町二丁目六番地         上総屋  江川金右衛門             (電話千六百十九番)          同町十四番地         小間物屋 同支店 【右頁下段】 ●《割書:各病院|眼科用達》 眼鏡製造所   金縁眼鏡 六金二円七十銭●七金三円        五十銭●九金五円三十銭●   十二金六円十銭●十四金六円八十銭●十八金   七円八十銭●二十金九円九十銭二十二金十   七円八十銭      銀縁眼鏡 極上等一円八十銭●上等一        円六十銭●中等一円三十銭   並等一円十銭   双眼鏡 極上等大形二十三円五十銭●同       十九円五十銭●中形十七円●   同十二円三十銭●同十一円●同九円五〇銭●   同小形八円二十銭●同七円六十銭●上等大型   五円五十銭●同中形四円八十銭●小形三円七   十銭●四枚玉二円五十銭   金製平打指輪 九金二匁付四円七          十銭●十二金同六   円十銭●十八金同八円七十銭●二十金同九円   七十銭●純金同十一円十銭   金銀宝石入指輪 ●製図機械●顕微鏡●疵見眼鏡 ●時計附属品●寒暖計晴雨計類 ●製図用定規●洋服附属品各類 ●和洋尺度類●西洋小刀鉛筆種  (為換は芝口郵便局宛に願候逓送料申受候)      東京市京橋區竹川町十番地    度器販売所 加藤菊太郎    《割書:京橋區竹川町|新橋勧工場内》 加藤出張店 【左頁上段横書】 ふしぎにきく ね小便の薬必効散 【縦書】 ◯長松どんおまへのおねしよには こまるよ此間をしへて あげた銀座のおくすり をおのみなれば直に なほるよ御かみさんに 御わびをしてあげ るからお薬 はきらいだお ぞといはない で早くのん でおくれヨー 一廻り  七日分   金十五銭 ●運賃郵税は 一廻り金二銭 以上二廻りぼ とに近二銭増 に御添御注文 を願上候 主 ね小便は一つの病にして医薬も全効を奏せしは稀なり然る   に此薬はいか程積年の慢性と雖も年来の経験にて完治せず   といふ事なく大人小兒共重症は三廻り軽症の如きは一廻り 治 服用すれば其効用かなり又常にひゑ症の御方は特薬に御用   ひ被成ば尤も神効あり 発売元 《割書:東京銀座一丁目|つやぶき本舗》  佐々木玄兵衛 附言此病はおもに雇子供に多く故に慈善に施し居候処施薬御き んせいに相成候為め売薬に改め候次第に付高価をむさぼらず元 薬価を以て売弘め仕候間此病にて御困りの御方は御試しあられ 度候 ●取次所は全国至る処に有り御最寄にて御求め可被下候●尚取 次之無き御地方は代金郵便為替又郵便切手を以て御送奉願候 【左頁下段】    新選最上  ●《割書:衛生|必要》雲南麝香(うんなんじやこう)廣告 ●正真雲南麝香(まぜものなきじやこう)は弊店(わたくしみせ)に於(おい)て数百年來発(ながねんらいうり) 売仕出(ひろめいたし)候事は顧客諸君(おんもとめのかた〳〵)の既(よく)に御承知(おなじみ)に入(い) らせられ候処 数年来拙家(にさんねんまへよりてまへ)の名前(なまへ)をたばか り偽物(にせもの)を持参(もち)し御得意様御屋敷(すべてのおとくいさき)方へ出(で) 入(いり)致す悪漢沢山御座候趣御愛主様方(わるものたくさんござるよしおきやくさま)より 連(しきり)に御注告(おしらせ)に預(あづか)り候故 諸新聞(しんぶんし)を以て再(たび) 三行商不仕旨広告致置候処当時(〳〵うりあるきせぬことおしらせしにたゞいま)は更に御(お) 注告(しらせ)も無之程(なきほど)に立至り候段難有奉存候 尚(なほ) 一層最上麝香(このうへよきしな)を撰(えら)み発売(うりひろめ)候間 倍舊御贖求(ます〳〵ごひゐき) の程希上侯 拙家の品は外粧(うはづゝみ)を飾(かざ)らず景物等(けいぶつなど)も相添不(そへす) 申(に) (新鮮香品(よきしな)を勉強(やすく)す) 又何品(またなにしな)に依えあず 行商(うりあるき)人等 一切差出不申(いたしません)候左様御承知の程 偏に奉希上侯 東京市京橋區銀座三丁目 【丸に】八 (大坂屋号)          松沢八右衛門   (電話にて御注文は「五百卅四番」御呼出の程願上候)    ●遠国より御注文は逓送料拙店持にて御送り可    申上候●郵便切手代用一割増      【右頁上段】   煙草入煙管烟管筒緒〆金銀前   金具紙入銀貨入婦人用帯留宝   玉入指環金銀根掛簪類   専売特許懐中香水吹 ◎為替振込は南伝馬町郵便局郵券代用は一割増◎   《割書:貴金属細工|美術袋物》 丸屋商店        金子直吉 【左頁下段】   大日本堺段通敷物相場書   ●染抜本間ノ部    ●染抜本間ノ部   ●別綿上織ノ部 ●壱畳 三十五銭   ●壱畳 四十銭   ●壱畳 五十銭 ●弐畳 七十銭    ●弐畳 八十銭   ●弐畳 壱圓銭 ●三畳 壱圓〇五銭  ●三畳 壱圓廿銭  ●三畳 壱圓五十銭 ●四畳半壱圓五十七銭 ●四畳半壱圓八十銭 ●四畳半弐圓廿五銭 ●六畳 弐圓十銭   ●六畳 弐圓四十銭 ●六畳 三圓也 ●八畳 弐圓八十銭  ●八畳 三圓廿銭  ●八畳 四圓也            ●十畳 四圓也   ●十畳 五圓也   ●別綿上織ノ部   ●別綿上織ノ部   何畳敷二テモ ●一畳 六十銭     ●一畳 七十銭   右割合ノ事 ●弐畳 壱圓廿銭    ●弐畳 壱圓四十銭 ●三畳 壱圓八十銭   ●三畳 弐圓十銭 ●●四畳半弐圓七十銭  ●四畳半三圓十五銭 ●六畳 三圓六銭    ●六畳 四圓二十銭 ●八畳 四圓八十銭   ●八畳 五圓六十銭 ●十畳 六圓也     ●拾畳 七圓    壱畳敷二付       壱畳敷二付        本手 ●九十銭也    誂上  ●弐圓也  染絨 ●壱圓也     織等  ●弐圓三十銭 織ノ ●壱圓二十銭也  別ノ  ●弐圓六十銭  込部 ●壱圓五十銭也      ●三圓也    ●壱圓八十銭也      ●四圓也  ●本鍋島段通●麻織コロス製●縞段通●縞ツーク●帆木綿織 ●段通製座布団 右者今般荷揃ヒ二相成候間例年之通リ売出シ仕候又上は しきござ畳表替ノ代価ヨリ下値ニテ御徳用ハ諸 君ノ知リ玉フ所也本年ハ織方模様ハ工芸ヲ進ミ珍奇ノ柄合売切 不相成中二御購求奉願上候 日本橋區葭町河岸大井戸角        段通問屋      日高屋為三郎         電話四百七十一番 同區新よし町十番地              小売店 日高屋売場 【左頁上段】   百工応用意匠圖案 五二会監督前田正名君題字 美術学校長今泉雄作君題字 《箱:美術海》 《割書:毎月一回発行|第八巻出来》         美術木版極彩色奉書摺         毎一冊正価三拾銭郵税二銭         壱ヶ年分十二冊前金参圓 美術海ハ京都畫伯諸大家ガ意匠ヲ練リ奇案ヲ凝シタル百工応用 必摘ノ圖案ノ海奇惣無量之ヲ織物友仙刺繍銅陶漆器七宝及諸般 ノ彫刻等二応用スル二最モ好材料ナルヲ信ズ既二本年三月初巻 発行以来京都工芸家の高評歓迎ヲ得乞ヲ陸続御申込アラン事ヲ 《箱:雛形四季之粧》 《割書:全五冊毎月発行|巻ノ三既刊》   美術木版極彩色奉書摺一冊正価三十拾銭   全部五冊前金壱圓五拾銭郵税一冊二銭宛 本書ハ専ラ古代ノ裾模様及うぶぎ振袖総模様等一百種ヲ描キ新 意匠ヲ施シ一目シテ衣服ヲ現二見ルガ如ク実二精選無二ノ美麗 ナル彩色本ナリ  発行所 京都市寺町通二條下ㇽ  山田直三郎  売捌所 東京市神田通新石町   東陽堂支店 【左頁下段】 《箱:王右軍 館本十七帖》 《割書:全定価 金三十五銭|一冊郵税金二銭》 王右軍の館本十七帖は三緘堂の舊蔵に係る鐫榻極精点畫捺揮毫 も遺憾なし加るに巌谷修先生の親切なる釈文をも添江たれば墨 池中の至宝と謂ふべし 《箱:顔真卿放生池帖》 《割書:全定価金六十五銭|二冊郵税六銭》 東坡曰書は顔魯公に極まると正学曰正にして拘らず荘にして険 ならず法度の中に従容し閑雅自得の趣ありと真卿の書は此二評 を見て知るべし殊に其放生池帖の如きは尤も秀拔なるものにし て鋒頴の雄健優に神に通す書家の秘蔵すべき良書帖なり 《箱:褚遂良孟法師碑》 《割書:全定価金三十銭|一冊郵税二銭》 瑤臺青璅々春林嬋娟たる美女羅綺に勝へすとは昔賢褚遂良の書 を評したるの語なり此碑は貞観十六年に書せるものにして佛龕 聖教の間に在り遂良の此帖を以て第一の標的と為して可なり 管原白龍書 《箱:草書千字文》《割書:全定価金三十銭|一冊郵税四銭》 世白龍山人の畫に巧なるを知て其書に妙なるを知らす山人は極 めて草書に巧にして運筆縦横溌墨の妙龍天門に跳り虎鳳闕に臥 すの概あり此帖を繙かは是れ必す山人の真価を知らむ          神田區通新石町三番地   発行所     東陽堂支店          【右頁欄外】 明治廿五年三月二十六日逓信省認可  明治二十二年二月十日初号初兌 【右頁上段】 東京府師範学校教官 大橋雅彦先生編畫 《箱:小学 本朝習画帖》尋常科用全八冊●正価             金三十九銭二厘郵税六             銭●自一至四●一冊金             四銭八厘●自五至八●             一冊五銭●郵税一冊に             付二銭             高等科用全八冊正価五             拾銭郵税八銭●自一至             四●一冊六銭●自五至             八●一冊六銭五厘●郵             税一冊に付二銭     最上等和紙摺美本 小学用毛筆畫帖世間其数多しい雖も多くは編成の順序 を誤り或は用筆粗雑に過き以て手本となすに足らす偶 々技術の取るへきものあれは多くは教育に経験なきも のゝ手になり畫題高尚に渉りて兒童の能力に適せさる ものゝみ大橋先生夙に之を憂ひ多年教育に従事せられ たる経験と学識とにより師範学校生徒に授けらるゝ処 と附属小学校生徒習字の実験とに徴し且つ一般小学校の 実際を参考し猶教育諸大家の意見をも叩き再三訂正の 上編纂せられたるものなれは小学習畫帖中他に比類な きを信す乞ふ陸続御採用の栄を賜はらむことを 発行所《割書:神田區通新石町|三 番 地》 東陽堂 【右頁下段】 《箱:日本風俗史》上下編          再 版          出 来 上編金八拾五銭郵税金拾弐銭●下編金壱圓七拾銭 郵税四百目二対スル小包料ヲ申受  但下編ヲ便利ノ為メ二冊二分裂セシ故製本料金拾  銭ヲ増ス 右を今に現じて燎々火を見るが如くならしむるもの風 俗史を推すべし戦争を記し政治を説き以て歴史の能事 了れりとなそ勿れ歴史を修むるもの文学史の必要なる を知る誰か知らん風俗史の最も必要なるをされば近頃 世人が風俗史の出づるを待つこと旱天に雲霓を望むが如 し弊社其気運に逼られ大方の望に副はんと欲し曩に平 出藤岡二氏の稿を得て出版せり此稿二氏が数年研鑽の 餘に成り記述明細考證確実加ふるに大々多数の有益な る挿畫を弊社が独特の石版を以て彫る世人評して近来 無比の好著述とす其評揚げて当時の諸新聞雑誌にあり 以て本書の価値を知るべし本書一度世に出て直に上編 を再版しまた忽に下編を売盡し大方諸君の厚意に負 くこと少からざりしが今や下編再版成り上編三板又 将に成らんとす 後編は繙読の便利 の為め二冊に別ち訂正増補 する所あり《割書:請ふ一本を繙いて世評の欺かざ|るを知られよ》 発行所《割書:神田區通新石|町三番地》 東陽堂支店        (電話九七〇) 【左頁挿絵上に】 臨時増刊 【横書】 風俗画報 百二十八号 洪水被害録 【縦書】 明治廿九年 十一月二十日

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